julyjuly

日記だとか文学音楽に関してだとか創作物の断片だとかです。
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断片・手紙
Rへ

 ブー猫を憶えてる? 

 学生のとき、昼になるとパンや牛乳なんかを買いこんで、二人で座って食べていたあの講堂……900番講堂の裏の階段、その一番上の特等席でいつもひなたぼっこしてたあの茶色い猫。耳からお腹、お尻の先まで綺麗に茶色で、ただしっぽだけは少し濃い茶色とのしましま模様で、唸り声は低く、体つきもがっしりしていて、右目が細いせいか、とてもふてぶてしい表情に見える。寝転がり方なんかも、傍若無人というか、いかにも人目を気にしない佇まいで、ブー猫っていうのは君が言い出した名前だったと思うけど、ぶさいくのブーなのかふてぶてしいのブーなのか、もう良く思い出せないな。
 ブー猫が雨の日には一体何をしてたのか、それは結局最後までわからなかったけれど、一方で、ぽかぽかと暖かく晴れた日には、ほとんどいつもブー猫はその「定位置」を陣取っていて、だから僕達はいつも、目を細め全身で日光を楽しんでいるブー猫の隣に遠慮がちに小さく座って昼ごはんを食べた。たまに君が思いついたように煮干やなんかをブー猫に差し入れることもあったけど、ブー猫はそれを「ちょっとした幸運が偶然にやってきた」みたいにそ知らぬ顔で受け取って、感謝のかけらも見せなかった。そのブー猫だ。

 ここにも、そのブー猫に似たのがたくさんいる。僕がこの病室にやってきてから一週間がたつけれど、部屋の窓を通して庭にたくさんの猫達を見ない日は一日も無いよ。ケンカしたりじゃれあったり、ブー猫みたいにただ寝転んでるやつもいる。じっと見ているとそれぞれに個性があって、猫ってほんとうに不思議な生き物だと思うよ。やわらかくて、牙と爪を持っていて、小さくて暖かくてしなやかだ。一日中見ていても飽きない。いや、少しは飽きるかな。

 そんな猫たちを見ることと、たまの検査、病院内でのちょっとした散歩、プラスチックの器に入った三度の食事。それがここに来てからの僕の日課だ。そんな、出来事と出来事の間の隙間の多い毎日を送っていると、自然と色々と考えてしまうことになる。僕自身について、僕以外の人やものについて。けれどそういう作業はなるべく昼、明るい陽の指すうちにやってしまうようにしている。夜にやると眠れなくなってしまうし、眠れなくなってしまっても病院では別なことをして気を紛らわすことができないからね。
 これはここに来て知ったことなんだけれど、多くの人々にとっては、異常な事態で無い限り、夜は寝るための時間なんだね。朝明るくなったら起き出してきて、夜暗くなったら眠る。リズムを崩さないようそれをひたすら繰り返す。そういう生活をしている人たちって、意外とたくさんいるもんなんだね。そして僕も、そういう生活を選択することもできるんだ。僕はここに来てようやく、そのことを理解したよ。表面的な言葉での理解でなく、身体の奥深くまで沁みこむ実感として。

   ***

 結局のところ、僕の抱える問題の本質は、身体的なことはさておき、とてもシンプルなことなんじゃないかと思うんだ。
 今、君の目の前に、曲がって見えるものがあるとする。本でもビニールシートでもなんでもいい、それは君の前にあるけれど、君から見てまっすぐではなく曲がって置いてある。ただそれだけ。君はそれをどうするだろうか? 想像してみる。君はそれが曲がって置いてあることを確認して、すぐにぷいと違うほうを向いて、手にマニキュアを塗ったり、本を読んだりし出すかもしれない。あるいは、それが曲がって置いてあることの意義やなんかについて、くだらない理論付けをして時間つぶしの遊びとするのかもしれない。いずれにせよ君はそんなふうに、君の周りにある状況を常に楽しんでいるように僕には見える。

 でも僕はそうじゃないんだ。僕は、曲がっているものを、そのままに受け入れることができないんだ。僕にとってそれは、まっすぐ置いてなくてはならないものなんだ。僕はそれがまっすぐ置いてないことに驚き、ショックを受け、何故曲がっているかについて考える。でもそこには理由なんてない。ただそれは曲がって置いてあるだけのことなんだから。そこで僕はパニックを起こしそうになりながらも、それをまっすぐに直そうとする。直れば僕は安心できる。でも直らなかったらどうする? 僕は苛々して、そのうちにそれは僕の視界の中で、白い上着についた致命的なシミみたいな存在になる。そして遂には、僕は自分がそれに合わせて曲がってしまうことを選択する。視界に写るそれを、まっすぐにするためだけにね。ほんとうは、そんな訳のわからない本やらビニールシートやらに合わせて僕が曲がる必要なんて、どこにもないのに。僕は何よりも、僕自身を信じるべきなのに。曲がっているのは本やビニールシートで、でもそんなことは僕にはあんまり関係なくて、僕は自分の信じる自分の道を行く、と、ただそう宣言すればいいだけなのに。
 でも、僕にはそれができない。

 そんなのっておかしいだろう? 自分でも馬鹿げてると思うよ。でも、どうにもならないんだ。世の中にはどうしようもないことってのがあるんだな。これは、僕がこれまでの人生の中で学んだことナンバーワンだよ。世の中にはどうしようもないことってのがある。そして、どうしようもないことに、僕は自分を信じられない。

 そんなおかしさとどうしようもなさの中で僕は26年、自分でも良くやってきたと思う。上手くはやれなかったけれど、それでもなんとかやってきた。でも随分くたびれもした。自分を信じられないと、心が外からの力に振り回されてしまうから疲労する。簡単なことだ。それに元から持ってたちょっとした疾患もあわせて、ついに身体にガタが来ちゃったみたいだ。
 そんな訳で僕は今ここにいる。ここで、毎日いくつかの治療を受け、わりにたくさんの薬を飲んでいる。薬を飲んでいるっていうのは、とても不思議な状態だよ。僕はこのところ、自分の意思や自分の身体、そんな、自分がコントロールできて当たり前(というのは、恵まれすぎた考え方かもしれないけれど)のものが、なにか自分の意思以外のものによって決定されていくさまを、ただぼんやりと傍観している。朝、決められた時間にきちんと起きることができ、夜決められた時間にぐっすりと眠ることができたときは、薬ってヤツの効能を不思議に頼もしく思ったりもする。ああ、僕はこのまま健康になることができるのかもしれないって、そう思う。でも、いつまでも薬に頼る訳にはいかない。それは僕も知ってる。

 どうしても心細くて寂しい夜には、自分の身体を抱きしめて、自分の心臓の音を聞く。でもその鼓動さえ、薬にコントロールされているんだ。その事実は余計に僕を悲しくさせる。僕は僕を信じられない。心臓の拍動さえ僕は自分で作り出していない。

 でもね、僕はこのところようやく分かってきたんだ。僕が頼るべきなのは、信じているのは、頼りたいのは、薬なんかじゃないんだ。この、何も無い、良く言えばシンプルな真っ白い病室の中で、僕を支え、僕をなんとか存在させているのは絶対に薬なんかじゃない。自分を信じられない僕だけれど、ようやくそのことだけは理解できてきた。僕を支えているのは、それは、君を抱きしめた時に自分の胸を通して聞いた君の心臓の音だ。

 僕は弱くて、自分を信じられなくて、ちっぽけな自分の心臓ひとつ自分の意思で動かすことができない。でもそれは事実で、僕はそれをうけいれなきゃならない。そんな風に思うとき、僕は君の心臓の鼓動を思い返す。そのしっかりとした拍動と、僕の胸に押し当てられた君の身体の柔らかさと重みと暖かさ。今ここで、君が僕の傍に居てくれて、僕に心臓の音を聞かせてくれて、僕の心臓が薬からひとり立ちするのを助けてくれればどんなに良いだろうかと思う。ほんとうに、心の底からそう思うよ。
 朝になったら抱き合ってキスをして、夜には一緒にベッドに入って、そんな風に君と一緒に居て、君の心臓の音をずっと聞いていれば、どんなに寒い冬の真夜中にだって、僕の心臓が行き惑うことはない筈だ。すぐ近くから聞こえる暖かく規則的な音、僕は、それを信じることができる。
  
   ***

 僕たちが大学を卒業し、あのキャンパスを離れてから随分経った。ブー猫はあれからどうしただろうか。今でもあの場所で、ぽかぽかとした陽射しを受けて、あの階段の上でひなたぼっこを楽しんでいるだろうか。
 でも、あの頃からもう6年ほど経つから、ブー猫はもう死んでしまっている可能性もある。でもね、もしそうだったとしても、きっと、ブー猫にそっくりなブー猫二世が同じ格好でひなたぼっこをしていると思うよ。命って、そういうもんだと思う。

 情け無いことかもしれないけど、僕はもう君無しではいられそうにないんだ。今すぐにでも君に逢いたいし、君のそばで、君を抱きしめてずっと生きていきたい。こんな不完全な僕だけれど、受け入れてくれるなら、ここを出ていの一番に君のところに向かうよ。そうしたら、いつになるかはまだ分からないけど、とにかく僕がここを出たら、一緒にあの場所に行ってみないか? 900番講堂の裏。陽の当たる階段。季節によっては蚊がたくさんいるかもしれないから気をつけて。なんだか僕は、どうしてももう一度ブー猫に会ってみたいんだ。そうだね、僕は多分、君と、あのブー猫がいれば、それ以上は何も要らない気がする。君とブー猫と、あのやさしい陽だまり、そんなのがあれば、そうすれば、これ以上なにかを見失うことも、何かに見失われることも、もう、ないように思う。

 いや、そうじゃないかもしれない。僕はやっぱりこれからも、何かを見失ったり、何かに見失われたりするかもしれない。でも、多分大丈夫なんだ。ただ君とブー猫の手をさえ、握っていられれば。


S病院にて Tより
| なつき | 断片 | 21:01 | comments(2) | trackbacks(0) |
場所
前居た場所は悪くなかった。好きだったかどうかは憶えていない。
その次の場所は酷かった。でも世の中そんなもんだろうとも思った。
今居る場所はその中では一番マシなんだろう。でも好きかどうかと聞かれると困る。

足の向かうまま俺は進む。

「どこかに夢の国なんてものがあると思うか?」
「さあね。俺には分からんが、少なくともどこに行っても満足だけは金では買えんよ。」

問い掛けた方が俺だ。答えた奴はもう居ない。
| なつき | 断片 | 14:22 | comments(1) | trackbacks(0) |
トモダチへ
 今日こっちは随分と蒸し暑くて、月並みな表現を使えば「サウナに入っているような」気分になったよ。僕は身体を動かして汗をかくのは好きなんだけど、サウナはあんまり好きじゃないから、つまりはこれは、僕なりの不快感の表明なんだ。サウナの何が苦手って、きっと僕は、同じ場所で、知らないひとと陰気な顔をつき合わせてじっとしているのが苦手なんだな。話すことと言ったら「熱いですね」そればっかりっていうあのサウナ独特のサウナ的雰囲気がさ。

 今日は昼からおじさんが遊びに来て、パパとママと僕と兄さんとでご飯を食べてから、色々な話をしたんだ。おじさんがついこの間まで遊びに行っていたイスラエルの話だとか、去年にみんなで一緒に行ったイタリアのことだとか、そういうことを。

 それで、夜も随分遅くなってから、家に帰っていくおじさんの車を家族全員で家の前で見送った。夜になってもあたりはやっぱり蒸し暑くて、いつもはなんの感情も呼び起こさない家の前の道も、今日はなんだか誰かがこっそり潜んでいるような気がした。誰か(もしくは、何か)のしめった息遣いを感じたような気がしたんだ。

 僕の家は、大きな道から、T字路になっている細い路地に50メートルほど入ったところにある。だから、僕の家に車で遊びにくるひとは、帰りに、細い道をずっと大きな道まで車をバックさせて出ていかなくちゃならない。そのT字路のちょうど角のところに電柱があって、車の運転が上手くないひとには結構な難所らしいんだ。僕はまだ免許を取れる年じゃないし、夢の中以外で車の運転をしたことはないから良く分からないんだけどね。ともかく僕たち家族は家の前に立って、大きな車を器用に扱い、T字路の向こうに消えていこうとしているおじさんをずっと見送ってた。

 そのときママがぽつりと言ったんだ。「あの角の電柱、Sさんは何度も車をぶつけてたわね」
 僕はママを見たけど、ママはずっと、既におじさんが居なくなった路地の先を見ていた。記憶を留めておく場所に底があるのなら、その底をまさぐっているのかもしれない、と僕は思った。
「Sさんよ。良くうちに遊びに来ていた。何度も、あの電柱に車をぶつけるのをこの場所から見たわ」
ママはそのまま、電柱のあたりにあるのだろう記憶の底から視線を外さずに言って、少し笑った。昔の自分がはらはらしながら見守る中で、まるで電柱に吸い寄せられるように接触してしまう車の映像を目の前に見ていたのかもしれない。
 そのママの言葉を聞いて、パパも「ああ、あいつのことか」と笑った。
「運転がとても下手だったから、かわいそうだったわね」ママは誰にともなく言った。「とても面白いひとだったわ。30歳になる前に、なんだかの病気で死んでしまったんだけれど。もう、20年以上前のことなのね」
 そう言ってママはようやく電柱から視線を外し、家の中に戻っていった。パパも兄さんも黙ってママのあとに続き、僕もそのまま、おじさんのイスラエルのお土産が散らばるリビングへと戻ることにした。

 今日あった出来事はそれだけだったんだ。でも、一体どうしてだか僕にはよく分からないんだけど、ただそれだけの出来事が、僕の心に妙にくっきりと残って、僕はその出来事から抜け出すことができないんだ。おじさんを見送ったあと僕は、おじさんの来訪の後片付けを手伝ってから一人部屋に戻って、パパとママが話してたSさんのことをずっと考えていた。

 どうしてだろう、「毎回電柱に車をこすってしまう」っていう行為が、なんだか僕に、彼のことを、ものすごく身近に感じさせたんだ。どうしてなんだろうってずっと考えてみたんだけれど、理由はやっぱり良く分からなかった。自分の感情の動きについてのことだっていうのに、ちっとも分からないんだ。僕はもちろん、Sさんのことは全然知らない。でも、なんだか、Sさんはみんなに好かれてるひとだったんだろうなって、何の理由もなしに思ったんだ。きっといつもニコニコと笑っていて、たまに若いパパと若いママが居るこの家にやってきて、時々は車を電柱にこすってしまいながら、自分の家に帰っていったんだろう。

 でももうSさんは死んでしまった。僕が生まれるのを待たずに、若くして、おそらくは苦しみながら死んでしまった。そう思うと僕はなんだか泣き出したい気持ちになった。ほんとうに突然、どうしようもなく悲しくなったんだ。僕が生まれるずっと前、もう20年も前に死んでしまったひと、当然会ったこともないひとに対してこんな気持ちになるなんて、とても不思議だった。でも僕は、Sさんが死んでしまったことがほんとうに悲しかったんだ。目を閉じると、まぶたの裏の暗闇のなかに、色んなひとがしずかに「世界」っていう器からこぼれ落ちていく様子が浮かんできた。素敵なひとが死んでいくことで、世界は少しだけ素敵な場所であることから遠ざかってしまうのかもしれないって思うと、僕はますます悲しくなった。

 もちろんその考え方は正しくない。世界は少しずつでも素敵な場所になっていっているって、そう思って努力すべきだし、僕だってなるべくそう思いながら努力してるつもりだ。もちろん、世界がほんとうに素敵な場所になっていっているかどうかに関わらず。
「死によって生は完成される」「死は、不完全な生を補完するものである」「だから、死を畏れる必要はない」っていう理屈だってわかってる。誰かが死ぬからこそ誰かが生まれるんだし、そんな風にしてこの世の中はもうずっと気が遠くなるくらい長い間成り立ってきたんだ。気の遠くなるくらい多くの生と、それとぴったり同じ数の死とを常に抱えながら。

 でも、Sさんが30歳になる前に死んでしまったことで、パパやママや僕がSさんに二度と会う事が出来ない、それもまた、どうしようもなくはっきりとした事実なんだ。誰にも動かし難い事実なんだ。僕がそれを悲しむことは変なことなんだろうか? 間違ったことなんだろうか? 素敵なSさんが死んでしまった代わりに、また別の素敵なひとがどこかで生まれてる。僕だってそう思いたい(それが僕じゃないことは、Sさんの素敵さを補うくらい僕が素敵じゃなかったことは、悲しいことなんだけど)。でもやっぱり僕は、パパとママの友達だったSさんが死んでしまったことが残念でならないんだ。とても悔しいし、とても悲しい。

 何度も書いているように自分でもとても不思議なんだけれど、多分僕は、誰かが僕の家の前からバックで車を運転し、あの電柱を避けながら大きな道に出ようとするたびにきっと、顔も知らないSさんのことを思い出し続けるんだろうと思う。ニコニコ笑いながら僕が生まれる前の僕の家にやってきて、車を電柱にこすって帰っていくSさんのことを。30歳になるかならないかの年で、この世界から静かにこぼれ落ちて行ってしまったSさんのことを。

 僕の中には、Sさんが何度も車をこすってしまった電柱みたいに、いろんな人が残していった思い出の断片みたいなものがごろごろとたくさん転がってるんだ。でも、僕は今そんな断片をたくさん持っているけれど、時間とともに、つまり、僕が大人になるとともに、それらの断片は僕の中から静かに消えていくかもしれないって思う。そう思うと僕はとても怖くなる。まるで、僕が僕じゃなくなってしまうみたいな感じがするんだ。
 君は、そんな風に何かを怖がったりしたことはある?

 なんだかとりとめもなく書いてしまったけど、それは君に対してだからなんだ。バカみたいな手紙だって、君以外の他のみんなはそう言うかもしれない。でも、君だけはそんな風に言わないって、僕は信じてる。

 愛をこめて


   ***

スティーヴン・チョボウスキー著『ウォールフラワー』へのオマージュ。「トモダチへ」で始まり「愛をこめて」で終わる数十通の手紙で構成される、15歳の男の子チャーリーの物語。

なお『ウォールフラワー』の内容はほぼ覚えていないので、そのうち再読してみようと思います。一粒で二度美味しい、ビバ物忘れ。
| なつき | 断片 | 02:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
こんなに苦しいのに、
何で、
自分で命を絶つのは良くないか、
って?

(うん)

それはね、

「死んじゃいけないから」
だよ。

(理由になってないよ)

その理由は、
分かる必要が
ないものなんだ。

ただ、
「僕が君にそう言った」
そのことだけは、
覚えておいて。


でもね、
自ら命を絶ってしまった
多くのひとびとのことは、
責めるべきじゃないと
僕は思ってる。

(なぜ?)

人生は
戦いで、

しかも
戦うべき相手は
良く分からず

そして、
最終的に
みんな必ず負ける

大切なのは
その敗れ去り方だという

そんな
理不尽な
戦いなんだ

つい
逃げてしまう日もある


だから、
何かが見えなくなってしまったそのときに
倒れる事を
うっかり選んでしまった人を
責めるべきじゃないと僕は思う

でも僕は
最後まで立っているつもりだよ



そんな
他愛も無い子どもとの会話や

5年前の夏
随分暑い日に
堪えきれずに命を絶ってしまった君のことを
棺に置いた花の鮮やかな赤を
君がもうそこにいないことを何より感じさせる遺影の笑顔を
意識の遠くにぼんやりと見ながら今日も僕は

もう、生まれてから何千杯目にもなるだろう
アイスコーヒーを飲んでいる

おそらく
君が犯したのは
ほんの一日の選択ミス
ほんの一瞬の判断ミス

「その日」を乗り切れば
君はきっと今も
僕の前に居ただろう

二人で
この店のコーヒーの味に文句を言っていただろう

痛かっただろうか
怖かっただろうか
今となっては
そうじゃなかったことだけ
僕は祈っている


多分
痛くて怖かったろうね


もしかしたら
もう変わらない過去のことを
真剣に祈るなんて
ナンセンスだと
君に笑われるかもしれない

その、良くまわる頭は
もっと生産的なことに使えよ、と
いつもの皮肉な笑み(のようなもの)で
唇をゆがめているのかもしれない

それでも
僕はいつまでも祈る
いつか戦いが終わる時まで


コーヒーを飲み終わったら
僕はまたどこかへ向かう

それまではもうしばらく
ここに座っている事にする
| なつき | 断片 | 12:53 | comments(2) | trackbacks(0) |
開かれているのは
開かれているのは清潔なパーティ。
清潔な人たちが集う清潔なパーティ。
永遠みたいに続く清潔なパーティ。

清潔なパーティに老いや死はいらない。
だからパーティ会場の中心には大きな水洗トイレ(洋式)がある。
(時には誰かがそこに座って愛を叫ぶこともある)

死や老いが現れそうになったらそこに流す。
流れた先には清潔な棺があって
流されたそれらが消毒されてパック詰めされる。
そのまま清潔な火葬場で焼かれて
清潔な死者の一丁あがり。
清潔なパーティでは清潔な死者は清潔に悼まれる。

パーティには清潔でないものは必要ない。

清潔なパーティではテレビも清潔だ。
遠くの国で
一途な若者の足がどんな風に見知らぬ死体を踏みつけただとか
やさしかったおじさんが爆発でどんな風にバラバラになっただとか
生まれた赤ちゃんの右手がどんな風に無かっただとか
欲望に押さえつけられた少女がどんな風に涙をこぼしただとか
そんなことは放映しない。
だって清潔じゃないから。

パーティの主催者は何より清潔が好きだ。
頼まれれば軍隊を使ってお水を配らせる。
お水は清潔だから。
お水は血とは違うから。

そうして誰も血を流さずに、パーティは清潔なまま進む。

ここで問題。
わたしはどこに居る?

遠くから主催者を囲み称える声が聞こえる。
皆がパーティの清潔さを愛しているその声が聞こえる。

わたしはどこに居る?

  ---

「ぼくはしょせんとても恵まれたエリートなんだ」と彼は言った。
目の奥を覗いてみたけれど何もなかった。
いまごろはエリートらしい仕事をしながらエリートらしい奥さんとエリートらしい家庭を築いていることだろう。

まず最初に君が君を許した。
だとしたらあとはそのまま転がるだけだ。
| なつき | 断片 | 01:32 | comments(2) | trackbacks(0) |
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