julyjuly

日記だとか文学音楽に関してだとか創作物の断片だとかです。
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幸せ、もしくは詩/うた
ことばが溢れている。何を見ても詩になる、何を聞いても詩になる。そう、わたしは、このままうたになってしまいたいのだ。

なんて、気障なことを考える。気障だねえ。聞いてあきれる。

冷たい空気を裂くように、自転車のペダルをぐっと踏み込んだ。かわいた風が鼻を撫でて、わたしはひとつの球になった。

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| なつき | 断片 | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
松浦理英子/セバスチャン
松浦理英子「セバスチャン」読了。松浦作品は、なんだか心にするすると入ってきて、好き。たとえそれが、同性愛やサディズム・マゾヒズムなどわたしの管轄外の分野を扱っていたとしても。

タイトルの「セバスチャン」については、松浦理英子本人が『聖セバスチャンの殉教図に塗り込められている、一種マゾヒスティック的な感性に対する共感がありました。ですから、あるマゾヒスティックな官能のあり方を描く時に、「セバスチャン」というタイトルをつけようという考えはあったと思います』『(聖セバスチャンの殉教図が)マゾヒズムということだけではなくて、ある同性愛的な屈折した感情のこもった絵である』と述べている。

そんなタイトルをつけるだけあって、この作品の中では、まず

?主人公の麻希子(マゾヒスト)と、傲慢で美しい背理という女性がサディズム‐マゾヒズム的関係を持っていたり(肉体的な欲望は無い)
?背理が過去に捨てた男と麻希子が肉体関係を持っていたり
?麻希子の友人の律子はレズビアンであったり
?麻希子の前に現れるマゾヒストの工也は肉体的コンプレックスを持っていたり(足が不自由)

などというように、サド‐マゾ関係や肉体関係・同性愛が多重構造的に連なっている。
「男は好き?」
「わからない。質問自体がわからない。」考え込みつつ麻希子は答えた。「私にとっては男も女もないのよ。自分を女だと思ったこともないし。私は単に世界にこぼれ落ちた無防備で無装飾の一個の肉体であって、世界に料理されることを待ち望んでいるだけだから。世界が男であろうと女であろうと関係ないの。私には、自分と自分にかかわって来る力があるだけなの。」
              松浦理英子 「セバスチャン」より

引用文を読んだとき、以前自分で書いた以下の文章を思い出した。以下、過去記事http://julyjuly.jugem.jp/?eid=252より一部を引用。
 わたしはとどまりたくない。閉じられた空間や閉じられた時間の中にとどまる気はない。わたしは拡張し溶け込みたいのだ。わたしは激しく求めている。その具体的な対象がわからない、それは滑稽といわざるをえないのだけれど。
わたしはとどまりたくはない。……いいえ、違う。わたしは見つけて、そして永遠にとどまりたいのだ。たとえば、耳が潰れてしまうような騒音の中に。あるいは、耳が潰れてしまうような静寂の中に。激しい痛みの中に。針で刺されるような孤独に。そして、自分の存在を完全にすりつぶされこっぱみじんにされてしまうほどの圧倒的な快感の中に。たとえば大きなすり鉢の中で。

 わたしは何にもなりたくなかった。でも世間はわたしに何かになることを求めた。そもそも世間とはただの幻だったのかもしれない。今となってはどうでもいいことだが。

麻希子も、拙文の主人公(仮にAとしましょう)も、「自分が何者か」であることそっちのけで(「自分が何者か」という根源的な問いなんてどうでもいいのだ)、『外部からの力』を強く欲しているところに共通点がある。ではその外部からの力とは何なのか? 果たして、他人がサディズム的に与えてくれるものなのだろうか?(麻希子に対する答えはそうなのかもしれない、Aにとっては何が答えになるだろうか)。松浦さんは麻希子を「(1981年当時の)新しい女性像」として描いている感がある。が、麻希子とA両者の「自己認識の薄さ」は、「前近代的女性」であると思ってしまうのは私だけ? それとも、これがいわゆる「マゾヒズム」なんだろうか。

なんだかよくまとまらないというかおそらく彼女の書いていることの本質が理解できていないような気がするのですがこのまま載せちゃう。そもそもサディズムとかマゾヒズムとか良く分かっていないので、今度澁澤さんでも読んでみましょうか。

---------

追記:えーっと上の文章だけでわかるかなって思って書かなかったのですがわたしには現状(おそらく今後もずっと)同性愛嗜好は微塵もありません。わたしにとって憧れの対象は(麻希子やAとは異なり)それに近づこうとして動いてしまう、それでもなおずっと遠い存在でありつづけるような、わたしがイメージするところの「男性的男性」なので。なお、ここで「男性的」という単語を使ってわたしが表したいものについての説明は省いてしまいますが、わたしにはその明確なイメージ(もしくはその「男性的男性」であるような人のイメージ)があって少なくともそれはわたしより筋肉があるとかそういうのとは関係ないです(最後いきなり投げやり)。

JUGEMテーマ:読書
| なつき | 読書 | 00:11 | comments(2) | trackbacks(0) |
ねえ、
「ぜったい」、なんてぜったい言わないで。
| なつき | 断片 | 19:07 | comments(2) | trackbacks(0) |
ハンマースホイ展
ここ数日酷かった眩暈がなくなり、ようやく元気になったので、SugarCheapさんの評を読んで興味を持ったヴィルヘルム・ハンマースホイ展に行って来た。久しぶりの上野。久しぶりの国立西洋美術館。

ほんとうは常設展も見たかったのだけれど(見たことない)、結局、3時から5時半の2時間半、たっぷりハンマースホイに費やした。こういう混みそうな(予想よりは混んでいた)展覧会は、終わり3時間くらいを狙って行くのが好きだ。一周目はすべての絵を見る。見終わったら最初に戻って二周目、気に入った絵を色々な距離から見る。二周目に入るころは終了間際なのでひとが少なく、遠くからでも絵の全体像を捉えることができる。

感想。

会場に入ってすぐの壁、一番最初に展示してあったのが、画家の妹アナ・ハンマースホイの肖像画だ。17歳(確か)の少女が、まるでこころがここにないような、なにか夢見ているような表情を見せている。その表情、視線の方向、淡い色彩、それらのせいだろうか、絵全体から、美しいけれど、どうにもつかみどころのない印象を受ける。

アナの表情にこころを残しながら、足を進めていく。そこに並んでいる絵(特に前半のもの)は、全体がある一定のトーンで統一されている。青みがかった灰色の中に、すべてのものが沈んでいるのだ。絵によっては、ずっと見ていると、まるで自分の目が、明るい原色を受け取れなくなってしまったかのような、どんどん目が見えなくなっていくかのような印象さえ受ける。すべてのものが、画家の持つフィルターの向こう、独特の色彩の中に静かに沈んでいる。

それらの絵を十点ほどみてすぐに、「この色彩、どこかで見たことがある」と思った。しかしどこでなのかが思い出せない。しばらく頭をひねって思い当たったのは、「夢の中」だった。そうだ夢だ。夢の中、静けさに覆われて世界が霞んでいる。それだ。

ああ、このひと(画家)は、夢を見ているのだ。妹アナでなくまさにこのひとが、夢を見ていたのだ。そう思った。近頃思うのだけれど、わたしは絶え間なく過去を食んで生きている。そしてそれとは別に、ひとはみんな、夢を見ながら生きている。そう、この画家も。

そんなふうに思ってからは、「つかみどころの無さ」は喉のつかえがとれたかのように無くなり、絵に寄り添えるようになった。

展の後半、ハンマースホイの愛したモチーフ「部屋」が多く出てくると、それまで灰色に沈んでいた絵の中に、「白」い「光」が差し込んでくる。白いカーテン、白いドア、窓からわずかに差し込む光そのもの。絵全体に華やかさがない分、「白」の重要さが際立っている。画家は、目を覚まそうとしているのかもしれない。でもやはり(おそらくはずっと)夢の中にいるのだ。そんなことを思った。

もうひとつ感じたことは、遠くから見たときに、このままこの距離で見ていたいと思わせる画家だということだ。どういうことなのかうまくは言えないけれど、大抵の絵は、遠くで見ると「もっと近づいても見てみたいなー」と思う。しかし彼の絵は、もちろん近くで良く見たいとも思うのだけれど、「この距離でずっと見ていたい」とも思うのだ。

総評。とても良かった。感動、とは違うのだけれど、ああ良いなあ、としみじみ思わせるものがあった。

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| なつき | 美術 | 20:03 | comments(3) | trackbacks(0) |
夜の女王のアリア(Koenigin der Nacht)
「夜の女王のアリア」の話をしよう。

モーツアルトのオペラ「魔笛」中で最もドラマティックに歌われるこの歌は、憎い男を殺せと娘に命じる母親=「夜の女王」のもの。正確には「復讐の炎は地獄のように燃え」というアリアで(ちなみに「アリア」とは「オペラにおける独唱曲」のこと、多分)、しかしそのような内容の曲に、モーツアルトはとんでもなく美しいメロディーをつけたのである。

この曲以外にも「魔笛」は素晴らしいメロディーばかりを含んでおり、わたしはこのオペラをいつ観ても、約3時間という上演時間があっという間に感じられるほど、飽きることなくわくわくしっぱなしなのであるが、この曲は悲しさにおいて群を抜いている。

 『復讐の炎は地獄のように燃え』

  地獄の復讐にこの胸は燃える、
  死と絶望の炎がわが身を焼き尽くす。

  おまえがザラストロに死の苦しみを与えないならば、
  もう親でもなければ子でもない。
  おまえとの縁は永遠に切れ、おまえは見捨てられるのだ。

  おまえがザラストロの息の根を止めなければ、
  親子の絆はすべて砕かれるのだ。
  聞け、復讐の神々よ! この母の呪いを!



You tubeにあがっている夜の女王のアリアの中では、このエレーナ・モシュクのものが好きで、良く聴く。

これ、なんといっても映像が良い。やっぱりオペラは映像つきでないと。この映像は、エレーナの迫力あるお顔、失礼、迫力あるのは表情ですね、が、しっかり捉えられていて良い。横で怯えているパミーナ(娘)役の女の子もなんかかわいいし。

もちろん良いのはお顔、失礼、映像だけじゃなくて、その歌である。0分49秒から何度も出てくる、F(ファ)というとんでもない高音の、音色と音程のよさ。2分26秒からの、H�rt!(聞け!)の3連発の表情の強さ。そしてラストを歌い上げ、舞台の去り方までかっこいい(怖い女王的な感じで)。これまで色々な方の「夜の女王」を観てきたけれど、これは完成度高いです。たった3分の曲なので、ぜひ聴いてみてください。

11/16 追記
ほんのこれだけの文章の中に、「とんでもなく良い」「とんでもなく美しい」「とんでもない高音」と、3回も「とんでもない」が出てきていることに気づいた。自分の語彙力の低さに絶望している。

JUGEMテーマ:音楽
| なつき | 音楽よもやま | 22:16 | comments(2) | trackbacks(0) |
日記/いまさらながら、池田晶子の死を知る。
古本でなく新品が良いと言った舌の根も乾かぬうちに、渋谷のブックオフへ行く。近所にブックオフが無いこともあり、一度行ってみたいと思っていたものの、何故かこれまで足を踏み入れたことが無かった。渋谷のブックファーストなら良く行くのだけれど。

そこでまず思ったのは、「広い」。広すぎる。しかも古着まで売ってる(地下一階)。なんだか広すぎて、本やCDがありすぎて、自分が何を探しているのか良く分からなくなってしまった。可能な滞在時間が30分だったため、よりそう感じたのだろう。

とりあえず、いつか読みたいいつか欲しいと長らく呪文のように唱えていた(暫くは読めないだろうけど)「アンナ・カレーニナ」は(上)しかなく、「同じ版の(下)が手に入らなかったらどうするんだ!」と憤りつつあきらめる。残念。結局、サガン「悲しみよこんにちは」、ヘッセ「春の風」、「石川啄木詩集」(以上古典強化月間)、そして105円コーナーで松浦理英子が何冊も並んでいるのを発見し「セバスチャン」「親指Pの修行時代(上)(下)」を購入。これだけ買って840円。改めてブックオフのすごさを思い知る。お金が減らないよ!

帰宅後、しばらく休んでから近所の本屋へ。

わたしはふだん、雑誌というものをほとんど買わない。かさばるし、なんだか保存性に優れていないような気がして、どうも敬遠してしまう。でも、ECひろしさんの11/13の記事で、東京人12月増刊が「太宰治特集」であることを知って、とても欲しくなってしまったのだ。なんだか最近ちょっと太宰づいていることもあるし、よし買おう、そう思って散歩がてら近所の本屋二軒をまわった。が、どちらも置いてなかった。

仕方ないので、携帯音楽プレイヤー(ipodではないのでこのような長い呼び名に!)でアルトゥール・グリュミオー演奏のバッハを聴きながら、やっぱバッハのヴァイオリンコンチェルトは1番が一番好きだなー、などとぼんやり考えつつ、ふらふら新刊コーナーを見る。

すると、とても目立つ所に池田晶子の本が平積みしてあった。おお、また出してるよ精力的だーと手にとってみる。その本(『人生は愉快だ』とある)にかけられた帯に印刷された彼女の笑顔は、なかなか素敵だった。とてもリラックスしているように見える。「おー晶子ちゃん良い顔してるじゃないー」と思い見ていると、まさにその帯に、でかでかと「死んでからでも本は出る」の文字が。え? またまたー。どういう意味ー? と思い、でも少しどきどきしながら著者の略歴を見ると……一年以上前に亡くなってる……。47歳で、とのこと。びっくりした。もうびっくりした。2回言うくらいびっくりした(3回目)。

わたしが最後に池田晶子の本を読んだのはもう10年くらいも前で、そのとき彼女は30代後半だった。それ以来彼女の本を読む機会は無く、だからわたしの中では当時の印象のまま、池田さんは30代後半なのだ。新進気鋭、とは違うけれど(詳しくは無いが、当時すでにかなりの仕事をされていた印象)、まだまだ若い、そして将来的にもっとたくさんの文章を残すであろう文筆家。そんなイメージをずっと持っていたので、ほんとうにびっくりした(4回目)。

池田晶子の文章について語るには、彼女が「女」である、というファクターが欠かせないように思う(無論わたしについても同じことがいえる)。女という性(セックスまたはジェンダー)であることと男という性であること。このことについてその10年くらい前当時、某氏(男性)と良く話をしたことを覚えている。そしてわたしはとことん池田さんの味方をしたような気がする。だってわたしたち女の子だもん。自分の信じた道を突っ走ることの何が悪いのよ。大雑把に言えば、そういうような意見を以って。あっはっは。

「死」は、一概に終わりであるとは言えない、かもしれない。でも、やっぱり、残念です。

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| なつき | 雑記 | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
まとめ。
これまでに書いた記事の中から、メモしておきたいものをまとめました。
読んでいただけると、このサイトの雰囲気が分かるかもしれません。

http://julyjuly.jugem.jp/?eid=275
| なつき | 雑記 | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
藤原伊織/シリウスの道
[藤原伊織] ブログ村キーワード

本を買うことは大きな楽しみだ。古本もいいがやはり新品が良い。紙のにおい、インクのにおい、つるつるの表紙、てのひらの上の小さな存在感。

わたしは近頃、ほとんど本を読んでいない。長い文章に意識を集中することができないのだ(徐々に集中力は戻りつつあるが)。買った本も、随分長く、いわゆる「積ん読」である。それでも、本を買うという行為はほんとうに魅力的で、大好きである。

   ***

今日も、本屋に行き、何かいまのわたしにも読みやすいものはないだろうかと棚を眺めていたところ、新たに(随分前から発売はしていたようだが)並んでいた藤原伊織さんの本を見つけた。「シリウスの道」。WOWWOWでドラマ化もされたらしい、広告代理店を舞台にしたビジネス・ハードボイルドだとのこと(そんな単語初めて聞いたよ)。

普段ならば全く手に取らない分野の本なのだが、藤原さんの作なので手にとってぱらぱらとめくる。買わずに本屋併設のスタバで読んでしまおうかとも思ったのだが、やはり思い直してレジに向かい、上下二冊を差し出す。

藤原伊織さんが亡くなってから一年以上が経つ
。それでも、家の本棚で、本屋で、その死を実感してやりきれない思いに襲われることがある。59歳での早すぎる死によって、もうこれ以上、藤原さんの文章が新たに世に出ることはないのだと。

なんというか、いつかどこかで会えるような気さえしていたのだ。藤原伊織さんに、である。大学の先輩であり、電通というわたしたちの日々の生活に近い企業に勤めていらしたこともあってだろうか、随分と図々しい考えだとも思うのだが、こうやってわたしが生きてさえいれば、いつか自然のなりゆきで、どこか思わぬところでお会いすることになるんじゃないかと思っていたのだ。馬鹿げていると思われてもしかたのない考えだけれども。
「だれがいってる?」
「みんな」
「……ねえ、きみは事実を尊重するタイプだろ」
「ちがう。わたしは真理を愛好するタイプ」
「それなら愛好するものについちゃ、もうすこし考えたほうがいいんじゃないのかな。真理の居場所はね、みんながいってるところにあった例しがないんだ」
          藤原伊織「ダックスフントのワープ」より

「ヘーゲルははじめてだけどさ、哲学の本読むのって、私、好きなの。哲学っておもしろいよね。こないだは、パスカル読んだ。あんた、パスカル読んだことある?」
「あるかもしれないけど、たぶん途中で放りだしたと思う」
「私、こんなの覚えてるよ。『矛盾は真理を見わけるのにつごうの悪い標識である』。パンセにあったの」
「ふうん。パスカルはなぜそういったんだろう」
「だって、正しいことで矛盾してることもあるしさ。まちがったことで矛盾なしにとおることだってあるじゃない。だから矛盾は、真理をめっけるときの邪魔にしかなんないの。そういうことよ」
「なるほどね」
 おどろくことはないのだろう。現実に、不可解な領域はあるかもしれない。だが、不自然なところはない。(中略)われわれが時間を追って見ることのできるものは変化だけだ。変化に不自然なところはない。だれにも変化は定義できない。
          藤原伊織 「ネズミ焼きの贈りもの」より

これらは、藤原さんの処女作「ダックスフントのワープ」からの引用。晩年(悲しい言葉だ)の、「エンターテイメント色が濃い」と評される作品たちとは趣を異にする、「純文学的」(と呼ばれるだろう)作品が収録されている。

優しくて、ロマンチストで、有能かつどうしようもないダメ人間であった藤原さんの声を、もう少し聞いていたかった。

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| なつき | 読書 | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
うちには、ないものがたくさんある。
ふらふらとインターネットのなかをさまよっていたら、こんな文章を見つけた。
朝のうちに洗った子どもの上履きが乾きそうもなかったので、今シーズンになってはじめてオイルヒーターを使った。十分水を切ったあと、蛇腹の上に載せておくだけでいつのまにか乾くから便利だ。冬場は子どもの体育着など、よくそうやって乾かすことがある。乾燥機があればいいんだけどね、うちにはないから。うちには、ないものがたくさんある。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~renraku/より

「うちには、ないものがたくさんある。」ちっとも残念そうではない空気で語られるこのせりふに、なんだかこころをしっかりと�まれてしまった。

ちなみにうちもオイルヒーターです。じんわりあたたかい暖房器具です。でも今年はまだ出してなくて、そろそろ出そうと思います。
| なつき | 雑記 | 12:51 | comments(2) | trackbacks(0) |
書くときに自らに言い聞かせること
掘れ。そして、潜れ。できるだけ深く。

あがる息を押さえ込め、
闇に怯える心を鎮めろ。

その先に、
何かが潜んでいるはずだ。

「それ」がかたちをあらわすまで、
なんどでも、そこへ行け。

油断してると、逃げられるぜ。
| なつき | 雑記 | 12:00 | comments(3) | trackbacks(0) |
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