julyjuly

日記だとか文学音楽に関してだとか創作物の断片だとかです。
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reading or die
思い立って青山ブックセンターへ行く。久しぶりに立ち入ったそこには欲しい本がありすぎてくらくらした。うわあ。本屋だ本屋だ。しかも素敵本屋だ。一人こっそり狂喜乱舞。

新しく出ていた「柴田元幸ハイブ・リット」ではオースターの、「村上春樹ハイブ・リット」ではティム・オブライエンの朗読が聴けるんだって。オブライエンのベトナム戦争体験モノを愛してやまないわたしとしては気になって仕方がない。村上春樹の英語朗読が聴ければもっと面白かったけれど。

村上春樹といえばわたしが大学一年生のときにサプライズで柴田元幸の授業に現れたことがあって、その授業とっていればと後悔したもの。一度生声を聞いてみたかった。写真公開されているけれどほんとは架空の存在なんじゃないかって時々思うもの。できれば架空の存在じゃないほうがいい。特に「海辺のカフカ」、内容はともあれ、文章そのものの練られ方、美しさが尋常じゃないもの。できれば実在していて欲しい。

id:boy_smithさんに薦めてもらった蜂飼耳はすごくいい。「真夜中vol.2」に載っている詩、ことばがつるつるぐるぐるざらざらどくどく喉を降りていく。興奮してページをめくる。この真夜中という雑誌自体、とても良い。人選が良すぎる。

ほかにも無事100歳を迎えられたレヴィー翁(はじめて接したときに「レヴィー」と表記されていたのでわたしの中では「レヴィ」ではなく「レヴィー」なのです)やらバルトやら谷川やらジャック・ロンドンやらフーコーやらなんやらぱらぱらめくって(めくるだけ)ああ本っていいないいなと思うけれど欲しい本はほとんどハードカバーで場所もとるわお金もかかるわで大変購入を躊躇してしまう。

このところなまりきったこの頭を少しは動かせるような、しかし久しぶりの読書に適した読みにくくない平易な本、しかもどうしても「文庫本」を一冊欲しかったので、悩んだ末に竹内薫・竹内さなみ「シュレディンガーの哲学する猫」を購入。正直、猫だから、ですね。誰にでもわかる哲学紹介本、のようですね。

マックでコーラを啜りながらぼんやり考え事をし、表参道をちょっとぶらぶらして帰宅。

reading or die、もちろんそんなことはなくてぼんやりしていても毎日は過ぎていく。

追記:("death"じゃないんです。)

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| なつき | 読書 | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロラン・バルト/恋愛のディスクール
引用。
抑圧。わたしは、分析し、知り、自分のものでない別の言語で表現したい。われとわが錯乱を描きだしたい。この身を分断し、切断しているものを、「正面からみすえたい」と思うのだ。「汝の狂気を理解せよ」、それが、分割された(たまごのように、ななかまどの実のように)アンドロギュノスの眼を当の分割点(腹)へ向けさせよう、「そうした分割のさまを見つけることで、彼らの傲慢をたわめよう」としたゼウスが、アポロンを通じて与えたという命令なのである。理解するとは、イメージを引き裂くこと、尊大な誤解の器官たるわたしを解体すること、ではないか。

Bへ。わたしはこの「われと我が錯乱」、を、なんとかして暗闇から引きずり出したい。太陽の下に晒して、仔細に観察してみたい。あなたのまえで。

言語とは肌なのだ。わたしはおのれの言語をあの人にすりつける。指のかわりに語を持つというか、語の先に指を持つというか。わたしの言語は欲望に打ち震えている。この動揺は、ある二重の接触から来ているのだ。一方では、ディスクール活動の全体が、慎重かつ間接的に、「わたしはあなたを欲している」というたったひとつの意味内容をとり上げ、解き放ち、これを涵養して繁茂させ、爆発させている(言語活動がわれとわが肉体に触れて楽しんでいる)。もう一方でわたしは、わたしの語の中にあの人をくるみ込んでいる。あの人を愛撫し、あの人に触れ、そうした接触を保ちつづけ、二人の関係に加える注釈を持続させようとして消耗しているのである。

そう言葉とは肌であり指なのだ。外界とわたしとあなたを隔てる唯一の布。なんと直接的になんとエロティックなのだろう、言葉とは。

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| なつき | 読書 | 09:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
松浦理英子/セバスチャン
松浦理英子「セバスチャン」読了。松浦作品は、なんだか心にするすると入ってきて、好き。たとえそれが、同性愛やサディズム・マゾヒズムなどわたしの管轄外の分野を扱っていたとしても。

タイトルの「セバスチャン」については、松浦理英子本人が『聖セバスチャンの殉教図に塗り込められている、一種マゾヒスティック的な感性に対する共感がありました。ですから、あるマゾヒスティックな官能のあり方を描く時に、「セバスチャン」というタイトルをつけようという考えはあったと思います』『(聖セバスチャンの殉教図が)マゾヒズムということだけではなくて、ある同性愛的な屈折した感情のこもった絵である』と述べている。

そんなタイトルをつけるだけあって、この作品の中では、まず

?主人公の麻希子(マゾヒスト)と、傲慢で美しい背理という女性がサディズム‐マゾヒズム的関係を持っていたり(肉体的な欲望は無い)
?背理が過去に捨てた男と麻希子が肉体関係を持っていたり
?麻希子の友人の律子はレズビアンであったり
?麻希子の前に現れるマゾヒストの工也は肉体的コンプレックスを持っていたり(足が不自由)

などというように、サド‐マゾ関係や肉体関係・同性愛が多重構造的に連なっている。
「男は好き?」
「わからない。質問自体がわからない。」考え込みつつ麻希子は答えた。「私にとっては男も女もないのよ。自分を女だと思ったこともないし。私は単に世界にこぼれ落ちた無防備で無装飾の一個の肉体であって、世界に料理されることを待ち望んでいるだけだから。世界が男であろうと女であろうと関係ないの。私には、自分と自分にかかわって来る力があるだけなの。」
              松浦理英子 「セバスチャン」より

引用文を読んだとき、以前自分で書いた以下の文章を思い出した。以下、過去記事http://julyjuly.jugem.jp/?eid=252より一部を引用。
 わたしはとどまりたくない。閉じられた空間や閉じられた時間の中にとどまる気はない。わたしは拡張し溶け込みたいのだ。わたしは激しく求めている。その具体的な対象がわからない、それは滑稽といわざるをえないのだけれど。
わたしはとどまりたくはない。……いいえ、違う。わたしは見つけて、そして永遠にとどまりたいのだ。たとえば、耳が潰れてしまうような騒音の中に。あるいは、耳が潰れてしまうような静寂の中に。激しい痛みの中に。針で刺されるような孤独に。そして、自分の存在を完全にすりつぶされこっぱみじんにされてしまうほどの圧倒的な快感の中に。たとえば大きなすり鉢の中で。

 わたしは何にもなりたくなかった。でも世間はわたしに何かになることを求めた。そもそも世間とはただの幻だったのかもしれない。今となってはどうでもいいことだが。

麻希子も、拙文の主人公(仮にAとしましょう)も、「自分が何者か」であることそっちのけで(「自分が何者か」という根源的な問いなんてどうでもいいのだ)、『外部からの力』を強く欲しているところに共通点がある。ではその外部からの力とは何なのか? 果たして、他人がサディズム的に与えてくれるものなのだろうか?(麻希子に対する答えはそうなのかもしれない、Aにとっては何が答えになるだろうか)。松浦さんは麻希子を「(1981年当時の)新しい女性像」として描いている感がある。が、麻希子とA両者の「自己認識の薄さ」は、「前近代的女性」であると思ってしまうのは私だけ? それとも、これがいわゆる「マゾヒズム」なんだろうか。

なんだかよくまとまらないというかおそらく彼女の書いていることの本質が理解できていないような気がするのですがこのまま載せちゃう。そもそもサディズムとかマゾヒズムとか良く分かっていないので、今度澁澤さんでも読んでみましょうか。

---------

追記:えーっと上の文章だけでわかるかなって思って書かなかったのですがわたしには現状(おそらく今後もずっと)同性愛嗜好は微塵もありません。わたしにとって憧れの対象は(麻希子やAとは異なり)それに近づこうとして動いてしまう、それでもなおずっと遠い存在でありつづけるような、わたしがイメージするところの「男性的男性」なので。なお、ここで「男性的」という単語を使ってわたしが表したいものについての説明は省いてしまいますが、わたしにはその明確なイメージ(もしくはその「男性的男性」であるような人のイメージ)があって少なくともそれはわたしより筋肉があるとかそういうのとは関係ないです(最後いきなり投げやり)。

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| なつき | 読書 | 00:11 | comments(2) | trackbacks(0) |
藤原伊織/シリウスの道
[藤原伊織] ブログ村キーワード

本を買うことは大きな楽しみだ。古本もいいがやはり新品が良い。紙のにおい、インクのにおい、つるつるの表紙、てのひらの上の小さな存在感。

わたしは近頃、ほとんど本を読んでいない。長い文章に意識を集中することができないのだ(徐々に集中力は戻りつつあるが)。買った本も、随分長く、いわゆる「積ん読」である。それでも、本を買うという行為はほんとうに魅力的で、大好きである。

   ***

今日も、本屋に行き、何かいまのわたしにも読みやすいものはないだろうかと棚を眺めていたところ、新たに(随分前から発売はしていたようだが)並んでいた藤原伊織さんの本を見つけた。「シリウスの道」。WOWWOWでドラマ化もされたらしい、広告代理店を舞台にしたビジネス・ハードボイルドだとのこと(そんな単語初めて聞いたよ)。

普段ならば全く手に取らない分野の本なのだが、藤原さんの作なので手にとってぱらぱらとめくる。買わずに本屋併設のスタバで読んでしまおうかとも思ったのだが、やはり思い直してレジに向かい、上下二冊を差し出す。

藤原伊織さんが亡くなってから一年以上が経つ
。それでも、家の本棚で、本屋で、その死を実感してやりきれない思いに襲われることがある。59歳での早すぎる死によって、もうこれ以上、藤原さんの文章が新たに世に出ることはないのだと。

なんというか、いつかどこかで会えるような気さえしていたのだ。藤原伊織さんに、である。大学の先輩であり、電通というわたしたちの日々の生活に近い企業に勤めていらしたこともあってだろうか、随分と図々しい考えだとも思うのだが、こうやってわたしが生きてさえいれば、いつか自然のなりゆきで、どこか思わぬところでお会いすることになるんじゃないかと思っていたのだ。馬鹿げていると思われてもしかたのない考えだけれども。
「だれがいってる?」
「みんな」
「……ねえ、きみは事実を尊重するタイプだろ」
「ちがう。わたしは真理を愛好するタイプ」
「それなら愛好するものについちゃ、もうすこし考えたほうがいいんじゃないのかな。真理の居場所はね、みんながいってるところにあった例しがないんだ」
          藤原伊織「ダックスフントのワープ」より

「ヘーゲルははじめてだけどさ、哲学の本読むのって、私、好きなの。哲学っておもしろいよね。こないだは、パスカル読んだ。あんた、パスカル読んだことある?」
「あるかもしれないけど、たぶん途中で放りだしたと思う」
「私、こんなの覚えてるよ。『矛盾は真理を見わけるのにつごうの悪い標識である』。パンセにあったの」
「ふうん。パスカルはなぜそういったんだろう」
「だって、正しいことで矛盾してることもあるしさ。まちがったことで矛盾なしにとおることだってあるじゃない。だから矛盾は、真理をめっけるときの邪魔にしかなんないの。そういうことよ」
「なるほどね」
 おどろくことはないのだろう。現実に、不可解な領域はあるかもしれない。だが、不自然なところはない。(中略)われわれが時間を追って見ることのできるものは変化だけだ。変化に不自然なところはない。だれにも変化は定義できない。
          藤原伊織 「ネズミ焼きの贈りもの」より

これらは、藤原さんの処女作「ダックスフントのワープ」からの引用。晩年(悲しい言葉だ)の、「エンターテイメント色が濃い」と評される作品たちとは趣を異にする、「純文学的」(と呼ばれるだろう)作品が収録されている。

優しくて、ロマンチストで、有能かつどうしようもないダメ人間であった藤原さんの声を、もう少し聞いていたかった。

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| なつき | 読書 | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
存在の耐えられない軽さと重さ
 その日テレザが牛舎から帰ってくると、通りから声が聞こえた。近づいてみると、トマーシュのトラックが見えた。トマーシュは身をかがめて、車輪をはずしていた。何人かの若者がまわりに立ち、ただそれを眺め、トマーシュが修理を終えるのを待っていた。
 テレザは立ったまま、その光景から目を離すことができなかった。トマーシュは年とったように見えた。髪は白くなっており、見てとれた不器用さは、運転手になった医者の不器用さでなく、もう若くない人間の不器用さであった。

 (中略)

 テレザは車のまわりの人に見つけられないように木の幹の後ろにかくれたが、トマーシュを見ながら、彼女の心は自責の念でしめつけられた。彼女のためにチューリッヒからプラハへ戻ったのだ。彼女のためにプラハを離れたのだ。そして、ここでさえも彼を苦しめつづけ、瀕死のカレーニンの前でさえ、彼女は密かにトマーシュを疑って悩ませていたのだと。
 テレザはいつも心の中で、彼女をちゃんと愛してないとトマーシュのことを非難した。自分の愛は非の打ちどころのないものとみなしながら、彼の愛は単なる優しさとみなした。
 今になって公平でなかったことが分かった。もし本当にトマーシュを大きな愛で愛していたら、彼と外国にとどまるべきであっただろう! そこでならトマーシュは満足できたし、あそこでならトマーシュの前に新しい世界が広がった!(中略)彼女はなんとずる賢いことができたのであろう! 彼女を愛しているかどうか何度も何度も試すかのように彼を呼び寄せとうとう今こんなところにいるようになり、彼は髪が灰色になり、疲れ切り、手はもう二度とメスをとることもできないほどこわばっていた。
 もうここからはどこへも出て行くことのできないところに二人はいた。ここからどこへ行くことができようか? 外国へはもう出て行くことを許されない。プラハへもどる道はもう見つからず、そこでは誰も二人に仕事を与えることはない。他の村へ行くには、何の理由も無かった。
 神よ、トマーシュが彼女を愛していると、テレザが信ずるためにここまで来る必要が本当にあったのであろうか?

(中略)

 テレザは家に行き、水を浴槽に入れた。お湯につかりながら、自分にいってきかせた。これまでずっとトマーシュに対し自分の弱みを悪用してきたんだわ。私たちはみんな力を罪とみなし、弱さを罪無き犠牲とみなす傾向がある。しかし、テレザは今自分で意識したが、二人の場合は逆である! 女の夢さえも、その強い男のたった一つの弱みを知っているかのように、彼にテレザの苦しみを展開して見せ、無理やりに田舎に引っ込むように仕向けた。彼女の弱さは攻撃的で、彼を絶えざる降伏へと強制し、最後には強くあることを止めさせ、彼女の腕の中の野兎に姿を変えさせたのである。

(中略)

 テレザは踊りながらトマーシュにいった。「トマーシュ、あなたの人生で出会った不運はみんな私のせいなの。私のせいで、あなたはこんなところまで来てしまったの。こんな低いところに。これ以上行けない低いところに。」
 トマーシュはいった。「気でも狂ったのかい? どんな低いところについて話しているんだい?」
「もしチューリッヒに残っていたら、患者の手術ができたのに」
「そして、お前は写真が取れたね」

(中略)

「テレザ」と、トマーシュは言った。「僕がここで幸福なことに気がつかないのかい?」
「あなたの使命は手術をすることよ」
「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていなくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ。
 彼の正直な声を疑う理由はなかった。今日の午後の光景がふたたび思い浮かんだ。トマーシュがトラックを直すのを見た。そしてテレザには彼が年を取ったように見えた。行きたいと思っていたところに来た。だって、年を取って欲しいと思っていたのだから。ふたたび自分の子供部屋で顔に押し付けた野兎のことを思い出した。
 野兎になるこってことは何を意味しているのであろうか? それはあらゆる力を失うことを意味する。それは誰もが誰に対しても力を持たないことを意味する。(中略)
今、同じように奇妙な幸福を味わい、あの時と同じような奇妙な悲しみを味わった。その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。
            「存在の耐えられない軽さ」ミラン・クンデラ 千野栄一訳


大きな悲しみと大きな喜びと大きな何か。時間が無いので詳細は後日。
| なつき | 読書 | 23:56 | comments(2) | trackbacks(0) |
無題
 僕がパリで幻滅に悲しんでいると思ってもらっては困る。ちょうど僕はその反対だ。いくら醜悪な現実でも、僕は進んで、現実のためだったら全ての夢を葬ることができるのを自分ながら驚いているくらいだ。
 ああ、これが少しでも君に書いてやれるのだったら! しかし、いったい現実というものは友達と分け合うものだろうか。いや、いや、現実は孤独の中へ閉じ込めておかねばならぬ。
(*原注 この一節は手紙の書きつぶしである)

                       リルケ 「マルテの手記」より

とりあえず引用のみ。
                  
| なつき | 読書 | 17:15 | comments(0) | trackbacks(3) |
英語論文講義
オジさん−−−(前略)過去の遺産というものは、自分の力で考え経験の中で一つ一つ確かめていかないと形骸化する。(中略)普段は形骸化した形式や伝統に文句を言っていながら、自分ではそれを本来の姿に保つ努力をしないなんてのは話にならん。サトがその一人だというつもりは毛頭ないが、今言ったことが過去の遺産を受け止める在り方なら、近代の思想だって宗教だって自分で一つ一つ確かめていくべきだ。
 現在の風潮はもう近代の思想なんて振り捨て新たな基礎に立って歩いているようでもある。この風潮がいいかどうかは別として、基礎的なところから考えるということ自体はいってみれば当たり前のことだ。そして、後世に生まれているんだから、改めて考える範囲が広くなるのもまた当たり前のことだ。そうなったとき、人間を改めて生物として見るところから考え直さなきゃいけないということもまた当たり前のことになる。もう少し一般的に言うならば、生命の存在をその存在条件全般との関係で捉える必要があること自体が当たり前のことなのだ。だったら、宗教のことも自分のことも、その広い視野の中で戻れるだけ根本に戻って論述するのが当たり前だ。

☆「科学と宗教」との関係を実際に生きた人間としての川田氏
オジさん−−−(前略)彼(人類学者であった川田氏)がどうして人類学者になったのかはわからないのだが、自分の関心に惹かれるがままに活動するうちに気づいたときには人類学者になっていたのかもしれない。関心を惹いたものが人類学でなければ明らかにできなかったから人類学者になったのかもしれない。学者や研究者になった人には、そんなふうにして専門の道に入った人が多い。川田の場合にその辺がどうだったかはわからないが、一般に興味や関心が研究の大きな原動力になっているとはいえる。でも、自分の関心だけで研究や仕事を続けていかれるかというと、全然そうじゃない。あるとき、どうにも動かしようのない厳然たるものにぶつかるんだね。というより、ぶつかる人がいるといった方がいいな。そうすると、ぶつかるかぶつらかないかで、あるいはどうぶつかるかで、その人の仕事の質や内容が大きく変わってくるわけだ。川田には次のようなことがあった。
 彼は現地調査の間にいろいろな矛盾を抱えこみながら自分の仕事の意義を自分なりに納得しようとする。しかし、そのとき更に「もう一つの疑問が絶えず自分を絶望的な気持ちに追いやる」と語る。彼は調査した土地の歴史的伝承をその土地の古老と同じくらいよく知っており、その意味に関してならば長年の調査を通じて彼らの知らないことまで知っている。だが、彼らの歴史の知識がどれだけ限られたものであろうと、また川田が外側からどれだけ立派で「客観的な」構築物をもちこんでみせようと、
   
私は、かれらの限られた歴史が、かれら一人一人のかけがえのない運命の上にもっている重みを、ついにつかむことができないのではなかろうか。

と語る。更に、外側から仮説的に組み立てたものの内側から意味を感知しようとして、直接には関係のない細々とした日常行動の意味や言葉のニュアンスまで貪欲に知ろうとするのだが、
   
それは、所詮、無限に近似したものを手に入れようとする努力におわるのではないだろうか。第一、私が自分のそうした努力に絶望したりすること自体、たいそうな思いあがりなのではないだろうか。
と語る。これは、学者として以上に、一人の人間としてなされた全く率直な表白であり、すばらしい言葉だ。「かれらの限られた歴史が、かれら一人一人のかけがえのない運命の上にもっている重み」を感じ取ろうとしたとき、文明と未開との区別は雲散霧消する。「私が自分のそうした努力に絶望したりすること自体、たいそうな思いあがりなのではないだろうか」と反省するとき、学者としての川田は消え去り、彼はただ一人の人間として異境の人々の前に立つ。
                    英語論文講義 今野雅方著より

「英語論文講義」。もう10年ほども前、わたしが10代の頃に出会った受験書(駿台文庫)。英語の論文を読んで日本語で論文を書くという英語論文試験=いわゆる『東大や京大の後期型試験対策』の受験書なのだが(ちなみにわたしはそんなものを当然受けては居ないのだが、あるきっかけがあってこの本を読むこととなった)これがとんでもない良書なのである。非常に分かりやすい言葉で、「学ぶ」ということについて、「文章」について、「言葉」について、「宗教」「西欧近代」その他、高校生がいずれ大学において出会うであろうさまざまなものごとについて、「オジさん」が、若者に対するあふれんばかりの愛をこめた語り口で紹介していく。

 わたしは、考えるということ、学ぶということの基本骨子をこの本から学んだように思う。学ぶこととは、この雑多で広い世界の中で、自分の輪郭や居場所を知ることであり、自分の無力や小ささを知ることであり、世界中にあるさまざまな痛みや悲しみや喜びについて考え、自分のものであるかのように受け止めようとすることなのではないだろうか、と若いわたしは理解していたように思う。懐かしい。

この本についてはまた書くかもしれない。しかしこの超良書、とうの昔に絶版となっている。駿台め。
| なつき | 読書 | 18:17 | comments(5) | trackbacks(2) |
英語論文講義 雫畭紊瞭阿自体が歪んでいるのか
トモ子−−−ちょっとよろしいでしょうか。これまでのお話をうかがっていると、近代の動き全体がどこかで歪みをもっていたようにも思えるのですが。

オジさん−−−そう聞こえたか。それは登山中の人間の活動が程度の差はあれ、みんな歪みになるのかという質問と同じだね。歪みというならな確かに歪みといえないこともない。一つの道を歩むということは他の道が持つ可能性を捨てることであり、自分の歩む道から見るのだから視野も否応なく一面的になる。でも、谷崎のところで話題になったさまざまな素材と工法のなかに美が見い出されそれが一つの形態にまで磨き上げられるまでの過程を思い出してごらん。近代全体がそのような過程でもあったのだ。なるほど思想と現実とをあまりにも対立的に捉え、埋めがたい断絶を作ったという点で、近代の思想に歪みがあるとは言えるが、決してそれだけじゃない。例えば音楽や絵画のことを考えてごらん。現実社会との対立を標榜したがためにいまに至って世間から見向きもされなくなった一部の思想があるからというって近代全体を歪みと捉えることは、かえって我々自身を貧しくするだけだろうな。

トモ子−−−ティツィアーノやジャコメッティを念頭に置いてそうおっしゃるのでしょうか?

オジさん−−−それだけじゃない。はっきり言えば、西欧近代の全期を通じて、人間には一つの要請が生まれている。これは西欧近代が創り出したとか生み出したというのではない。明るみに出したというべきだ。西欧だけに存在するものじゃないんだからね。でも、現在の日本人は西欧のものから学ぶことが多い。それに、君たちは英語論文で受験する。だから、いまのように西欧に重点を置いた言い方になっているだけだ。
 この要請がどれだけの深さや豊饒さをたたえているか、それを実現するのにどれだけの年月と修練とが必要か、こんなことを知りたかったら、西欧のものでは、たとえば、リヒテルとシフという新旧二人のピアニストが弾いたバッハの「平均律クラヴィーア」を聞き比べてごらん。シフという人はとても端正な演奏をする人だが、二人の演奏には5年や10年では全く追いつけない修練との差が出ている。そんな修練と陶冶の後でなければ生まれない優しさもね。ラスキンの歪みは何物かを深く追い求めるものに一時的に生じる不可避な歪みだが、それは自己の中に生まれた要請を言葉を通じて明らかにすることがどれほど困難かを物語ってもいるのだな。
 結局、近代は何事をなすにも自分に還れという遺産を一つ我々に残してくれた。でも、その還るべき自分とはどんな自分だろう? この点で、近代の豊かな成果を知って還る場合とそうでない場合とでは、自分の理解にも日本の伝統の理解にも、大きな違いが出てくるだろう。

トモ子−−−そんなお話をうかがっていると、やっぱり、おじさんはずいぶん高く西欧の近代を評価なさっているように聞こえるのですが。

オジさん−−−それはもちろん非常に多くのものを学んだし、学ぶべきものが非常に多くあるのだから、当然さ。でも、だからといって日本のものや他の国のものを軽く見ているかというと、そうじゃない。もう、おじさんはお里帰りした人間でね、日本人だよ。そして、それを有難いことだと思っている。というところで、今日はおしまいにしよう。
                           英語論文講義 今野雅方著より
| なつき | 読書 | 18:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
死のフーガ(Todesfuge)
夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ
ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ぼくらは宙に墓をほるそこは寝るのにせまくない
ひとりの男が家にすむその男は蛇どもとたわむれるその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツにあてておまえの金色の髪マルガレーテ
かれはそう書くそして家のまえに出るすると星がきらめいているかれは口笛を吹き犬どもをよびよせる
かれは口笛を吹きユダヤ人たちをそとへよびだす地面に墓をほらせる
かれはぼくらに命じる奏でろさあダンスの曲だ

夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ
ぼくらはおまえを朝にのむ昼にのむぼくらはおまえを晩にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ひとりの男が家にすむそして蛇どもとたわむれるその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツにあてておまえの金色の髪マルガレーテ
おまえの灰色の髪ズラミート

ぼくらは宙に墓をほるそこは寝るのにせまくない
かれは叫ぶもっとふかく地面をほれこっちのやつらそっちのやつら歌え奏でろ
かれは腰の金具に手をのばすふりまわすかれの眼は青い
もっとふかくシャベルをいれろこっちのやつらそっちのやつら奏でろどんどんダンスの曲だ

夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ
ぼくらはおまえを昼にのむ朝にのむぼくらはおまえを晩にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ひとりの男が家にすむおまえの金色の髪マルガレーテ
おまえの灰色の髪ズラミートかれは蛇どもとたわむれる
   
かれは叫ぶもっと甘美に死を奏でろ死はドイツからきた名手
かれは叫ぶもっと暗くヴァイオリンをならせそうすればおまえらは煙となって宙へたちのぼる
そうすればおまえらは雲のなかに墓をもてるそこは寝るのにせまくない

夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ
ぼくらはおまえを昼にのむ死はドイツからきた名手
ぼくらはおまえを晩にのむ朝にのむぼくらはのむそしてのむ
死はドイツからきた名手かれの眼は青い

かれは鉛の弾できみを撃つきみをねらいたがわず撃つ
ひとりの男が家にすむおまえの金色の髪マルガレーテ
かれは犬どもをぼくらにけしかけるかれはぼくらに宙の墓を贈る
かれは蛇どもとたわむれるそして夢想にふける死はドイツからきた名手

おまえの金色の髪マルガレーテ
おまえの灰色の髪ズラミート

               パウル・ツェラン「死のフーガ」 飯吉光夫訳 より


ここに、その昔遊びで書いた「二声のフーガ」というものを載せましたが、構想(つまり、「フーガ」という音楽用語の名をつけたく文章を書こう、ということ)は全くこの「死のフーガ」から得ています。まねっこです。

パウル・ツェランはドイツ系ユダヤ人で強制収容所を経験しているとのことです。原文はドイツ語。やはりこういう詩ってヤツは原文で読んだほうが……とか言えない。読めない。もう読めないよー。

この詩はたしか、大学三年のときに文学部の初級者対象ドイツ語講座で扱われたものだったと記憶しています。わたしは第二外国語が仏語だったので、三年生ながら『初級者講座』を取ったわけです。と言っても文学部に進級した人たち向けの授業なので展開は速く、実験(わたしは理系でした)と両立するのが大変な授業でした。ていうか予習とかできなくていつも先生に謝ってた気がする。そしてドイツ語は全部忘れた。先生に迷惑かけまくったうえに全て忘れた。うわー。うわーん。というか英語すら忘れている。はっはっはー。ごめんなさいお母さんお父さん。学費とか。

しかしこの詩(に限らないと思うが)、訳すのがとにかく難しい。例えば、
 ^戝瞥醋椣豺毀
 'Schwarze Milch der Frühe wir trinken sie abends '
 夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ
 二段落目一行目
 'Schwarze Milch der Frühe wir trinken dich nachts'
 夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ

などという単純な文章であっても、sie(ここでは=themと考えてよい)を「それ」と訳すか「彼ら」と訳すか、(dichを「きみ」と訳すか「おまえ」と訳すかとはまた別の問題で)で随分違いが出てくるものです。△呂そらく(と自信を持って言えないところが切ないですが)「夜明けの黒いミルク」を擬人化(dich=you)していますが、,浪未燭靴討修Δ垢戮なのか? そもそも「夜明けの黒いミルク」ってなんだ? そんなことを考え出すとキリがないのです。

また、授業で触れられ面白いなーと思ったのは以下。
 三段落目三行目
 'er greift nach dem Eisen im Gurt er schwingts seine Augen sind blau'
 かれは腰の金具に手をのばすふりまわすかれの眼は青い
 は暫瞥醋椹郵毀
 'der Tod ist ein Meister aus Deutschland sein Auge ist blau'
 死はドイツからきた名手かれの眼は青い

では「目」はAugenと複数形になっていますが、い任Augeで単数。これはなぜか? ということは、い亮,諒検屬れは鉛の弾できみを撃つきみをねらいたがわず撃つ」を見れば分かります。い痢屬れの眼」は、銃の照準を覗いている片目なのですね。そんなことがこの文が単数であるか複数であるか分かるわけです。うわーおもしろい。

そんなことが授業で扱われた気がします。死のフーガに関しては紹介程度、ほんの触る程度だったのですが、妙に心に残る詩で、当時はドイツ語の勉強も兼ねて暗唱していました。洗濯物干しながら「Schwarze Milch der Frühe wir trinken sie abends……フンフン」みたいな感じで。いや、そんな軽々しく暗唱するような内容の詩じゃないんだけど。

しかし、この訳文は、原文の、肌に直接触れる冷たさや脱力感を伴う絶望、また造詣の微妙な崩し方とその美しさ、まさに「フーガ」の名を冠するにふさわしい精緻な美しさをしっかり伝えていると思います。すばらしい。

なお、死のフーガについて検索している時に発見したこのページの訳は、独自のリズムをもった日本語という言語へのドイツ語からの移し込み、という点で、ギリギリのラインを追求した、非常に秀逸なものであると思いました。とても気に入ったのでご紹介します。ご参考まで。

*多分この文章、書きかけです。また直すかもしれません。
| なつき | 読書 | 21:52 | comments(1) | trackbacks(2) |
2005/6/9日記の転載あるいはエドワード・ゴーリー「おぞましい二人」について
『おぞましい二人』

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「これ、もの凄く良いから」と言いながら友人が貸してくれた、エドワード・ゴーリーの絵本を読む。「敬虔な幼子」「おぞましい二人」の二作。 これが、本当に良かった。久しぶりに、「それまで全く聞いたことの無かった、とても良いもの」に触れられて、嬉しい。友人よ、ありがとう。

まず、単純に、挿絵がとても良い。 子供の表情の奥の深さがたまりません。「おぞましい二人」の最初のページのハロルドの表情とか、「敬虔な幼子」に出てくる幼子の表情のあまりの敬虔さとか、ヤバい。笑う。

しかしそれ以上に、語られているものがたりが、素晴らしい。

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「おぞましい二人」は、子供を攫い、殺し続けた夫婦の話。
参考
http://www.bk1.co.jp/product/2509629
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309268005/250-0530283-1685805

感想は……何を口に出しても嘘になりそうなので、何も言わないつもり……とかいいながら少し。

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誰かの心の闇を、直接に覗く事は出来ない。

ここに描かれている「おぞましい二人」の持つ心の闇は、「子供を殺すこと」によって万人が確認できるものとして具現化されたけれど、同様の闇はおそらくは世のほとんどの人間が持っている筈のものであり(もちろん程度の差はあれど)、そしてそのほとんどの人は、その闇を具現化せずに抱えたまま沈黙を守り死んでいくのだろうと思う。

この「おぞましい二人」は、不器用すぎて沈黙を守れなかっただけであり、この絵本に出てくる「モナ」は、今のわたしよりもう少しだけ不器用だったわたし、なのではないかと思った。

いや、殺人とか絶対しないけどさ!! まじで!! ありえんから! 一応言っとく!

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しかし、こんなことを考えはじめると、誰かに寄り添う事さえ、もの凄い恐怖となるのだ。子供を殺し続けた「おぞましい二人」の持つ以上の闇を、あなたはそこに抱えているのかもしれない。そしてきっとわたしは、あなたについて、ほとんど何も見極められないままに死ぬのだろう。

それでもわたしはあなたに寄り添う。同じように可視化されることのない深い闇と、あなたを強く求める心と、この悲しみを携えて。それがわたしの選択であり、人生に対する宣言だ。

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ちなみに、訳は、柴田元幸。 この人が翻訳する本って、いつも本当にセンスが良いと思う。力があるから、自分で何を翻訳するかを選べる訳ですね。ああ羨ましい。

彼のシンプルな訳文も結構好きです。わたくし、オースターやブコウスキーが好きなので、とてもお世話になっています。いつもありがとう、南無南無。エッセイなんかは絶望的に面白くないんですけれどね、この人(ごめんなさい)。

「自分で創作をしたいんだけれど、どうにも書けないから、自分の得意分野の能力を使って文芸に関わっている」とのこと。芸術家に憧れ続けて、でも芸術家には成れなかった学者。……気持ち、痛いほど分かります。

ちなみに、友人が彼の研究室に所属しているんだけれど、真面目に働く普通の良いおじさんらしいです。だろうなあ。

| なつき | 読書 | 23:43 | comments(0) | trackbacks(6) |
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