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日記だとか文学音楽に関してだとか創作物の断片だとかです。
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アンドリュー・ワイエス「創造への道程(みち)」@Bunkamura
アンドリュー・ワイエスの美術展に行く。ハンマースホイ展に続き、これもまた非常に良かった。最近の美術展は当たりばっかりだ。これでフェルメール展を空いているときに見られれば文句無いんだけれども。

紹介サイトに、『多くの場合、ワイエスは鉛筆やペンなどで素描を描き、そして次に水彩を描きます。さらにドライブラッシュ(水気をしぼった筆で描く水彩画の技法)でより詳細に描き、最後にテンペラに取りかかります。』とあるが、この展では、その過程(ある作品について、鉛筆→水彩→テンペラ、とワイエスがひとつのモチーフについて仕上げていく様子)を見ることができる。これは非常に貴重な体験であった。へえ、こんな風に対象物を見つめて、鉛筆で描いて、水彩で捉えて、テンペラとして完成させていくのね、と、非常に面白かった。

作品は全体的に暗い茶系の色(好きな色なのだろうか)で統一されているが、露骨に感情を表に出すことはない。ただ、暗い色彩で描かれる対象物の奥に、ストーリーが隠されている。

10点ほど展示されていたテンペラ作品では、細部を見つめつくすことによって対象の本質を見抜こうとする力を強く感じた。そうだ細部に本質が宿るのだ、忘れてはいけない。細部、細部。

しかし完成形であるはずのテンペラよりも圧巻であったのが水彩であった。テンペラよりもずっと即興的である水彩において見られる、素晴らしい色彩感覚というか筆先感覚というか、どうしてこんなにも「すばやく」「やりなおしのきかない状況で」「的確に」優れたものを生み出すことができるのだろうと感嘆することしきりであった。その即興的な状況を楽しんでいるさまはまるでモオツアルトである(小林秀雄風)。

特に気に入ったのは「幻影(テンペラ)」と「野に置かれた義手(ドライブラッシュ・水彩)」のふたつだ。

(※ここhttp://journal.mycom.co.jp/news/2008/11/10/043/index.htmlで「幻影」の習作(水彩)とテンペラを見ることができます。)

「幻影」は鏡に映った自分を描いた作品。「野に置かれた義手」は、倒れた木の上に義手が置かれており、その向こう、義手の持ち主である黒人が描かれているもの。「幻影」は「白」が非常に美しくまさに「幻想」的な作品で、自らを描いていると思えないほど客観的な表現が印象的なものだ。「野に置かれた義手」は、片腕の黒人が仕事中に休憩をとっているのだろうか、その切り取り方(画面に置かれた緑色までも)が非常に優しい作品だ。

最後に、近影がちょう渋くてかっこいいと思った。どうでもいいけど。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/08_wyeth/andrew.html
| なつき | 美術 | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハンマースホイ展
ここ数日酷かった眩暈がなくなり、ようやく元気になったので、SugarCheapさんの評を読んで興味を持ったヴィルヘルム・ハンマースホイ展に行って来た。久しぶりの上野。久しぶりの国立西洋美術館。

ほんとうは常設展も見たかったのだけれど(見たことない)、結局、3時から5時半の2時間半、たっぷりハンマースホイに費やした。こういう混みそうな(予想よりは混んでいた)展覧会は、終わり3時間くらいを狙って行くのが好きだ。一周目はすべての絵を見る。見終わったら最初に戻って二周目、気に入った絵を色々な距離から見る。二周目に入るころは終了間際なのでひとが少なく、遠くからでも絵の全体像を捉えることができる。

感想。

会場に入ってすぐの壁、一番最初に展示してあったのが、画家の妹アナ・ハンマースホイの肖像画だ。17歳(確か)の少女が、まるでこころがここにないような、なにか夢見ているような表情を見せている。その表情、視線の方向、淡い色彩、それらのせいだろうか、絵全体から、美しいけれど、どうにもつかみどころのない印象を受ける。

アナの表情にこころを残しながら、足を進めていく。そこに並んでいる絵(特に前半のもの)は、全体がある一定のトーンで統一されている。青みがかった灰色の中に、すべてのものが沈んでいるのだ。絵によっては、ずっと見ていると、まるで自分の目が、明るい原色を受け取れなくなってしまったかのような、どんどん目が見えなくなっていくかのような印象さえ受ける。すべてのものが、画家の持つフィルターの向こう、独特の色彩の中に静かに沈んでいる。

それらの絵を十点ほどみてすぐに、「この色彩、どこかで見たことがある」と思った。しかしどこでなのかが思い出せない。しばらく頭をひねって思い当たったのは、「夢の中」だった。そうだ夢だ。夢の中、静けさに覆われて世界が霞んでいる。それだ。

ああ、このひと(画家)は、夢を見ているのだ。妹アナでなくまさにこのひとが、夢を見ていたのだ。そう思った。近頃思うのだけれど、わたしは絶え間なく過去を食んで生きている。そしてそれとは別に、ひとはみんな、夢を見ながら生きている。そう、この画家も。

そんなふうに思ってからは、「つかみどころの無さ」は喉のつかえがとれたかのように無くなり、絵に寄り添えるようになった。

展の後半、ハンマースホイの愛したモチーフ「部屋」が多く出てくると、それまで灰色に沈んでいた絵の中に、「白」い「光」が差し込んでくる。白いカーテン、白いドア、窓からわずかに差し込む光そのもの。絵全体に華やかさがない分、「白」の重要さが際立っている。画家は、目を覚まそうとしているのかもしれない。でもやはり(おそらくはずっと)夢の中にいるのだ。そんなことを思った。

もうひとつ感じたことは、遠くから見たときに、このままこの距離で見ていたいと思わせる画家だということだ。どういうことなのかうまくは言えないけれど、大抵の絵は、遠くで見ると「もっと近づいても見てみたいなー」と思う。しかし彼の絵は、もちろん近くで良く見たいとも思うのだけれど、「この距離でずっと見ていたい」とも思うのだ。

総評。とても良かった。感動、とは違うのだけれど、ああ良いなあ、としみじみ思わせるものがあった。

JUGEMテーマ:美術鑑賞
| なつき | 美術 | 20:03 | comments(3) | trackbacks(0) |
2005/5/20日記の転載あるいはゴッホについて
・お友達とゴッホ展に行った。やはり、顔をみていると無性にいじめたくなるけど少し我慢した。

・ゆっくりと絵を見てたら、退館を促す係員の言葉が、徐々に情に訴える系になってきて笑った。「閉館作業とかもあるからお願いですから早く帰ってください」みたいな。

・ゴッホは天才じゃないんだなあとか再認識。「孤高の画家」って表現も、どうかと思うなぁ。美化したがる気持ちは分かるけど。日本人て天才好きだしなぁ。

・わたしから見れば、カルロス・クライバー(感覚的なすばらしい指揮をする指揮者)とかその辺の方が天才に近いかもしれない。この際、やった仕事の大小はあまり関係ない。

・ゴッホさんは、確かに素敵な絵を描いた人だけれど、めちゃめちゃ、はいつくばって苦しんでた印象。思考回路は比較的普通の人に近いと思う。もしくは、わたしの「孤高」って言葉の解釈が違うのか。仙人みたいな人を想像するんだけど。孤高って。

・「天才」ってのは、そんな風に苦しまないイメージ。楽しみながら鼻歌交じりにやってる行為が芸術だったりする。あんまり迷わない。難しいことは考えない。だって天才だから。

・「はいつくばる」なのか「はいくつばる」なのかわかんなくて辞書ひいたのは秘密です。

・後者は変換しようとすると「俳句ツバル」になったのでたぶん違うだろうと思いました。やっぱり違いました。わたしGJ!

・色の純粋さがまっすぐこちらに向かってくる絵でした。表現技法の洗練のされ方やなんかは本質とは関係ないとは思うけれど、それでも何か特別なものを伝えるためには、そういう部分でも苦労しなくてはいけないんだなあと思いました。そこは音楽と似ている(細かく言うと違うけど、今はそこは気にしない)。

・でも、絵画と音楽では結構違う部分もある。例えば、奏でられた音楽と描かれた絵の時間性。それも、CDの普及によって状況は変わってきているけど。

・苦労しないでやりたいことをやればよかったのになぁ、とちょっと思った。こういう人にこそ、口笛吹きながら一生楽しく絵を描いていて欲しかった。あんなに素晴らしい目とか愛とかを持っていたのに。

・でも、飢えているからこそ描ける絵、というのも在る。

・難しい。

・たまには、色んなことを、もっと離れて見てみる。所詮、1人/60億人であり、70年/45億年である。もっと大きなものが他にある。それを喜ぶべき。自分の小ささを知るべき。そして、色々なものに敬意を払うべき。

・とにかく表現したいことありき、自分の心に来た「振動」を形にするにはどうしたらよいのか、ということをひたすら考えつづけた人がいる。

・「やりたいこと」を持っている人は好き。でも持ってなくても好きな人は好き。

・わたしも「やりたいこと」をやろう。

・しかしやっぱり、「孤高の画家」とかいうベタな表現は嫌い。使い古されて手垢のついた表現は嫌い。「ああやっぱり天才だなぁ超かっこえー」とか思わせたいのかお前ら! みたいに軽く反抗してみる。でもやっぱり天才とか実は結構好きな自分が居る。腐っても日本人。

・ゴッホさんは、同時代の画家の手法とか、それはもう色んなものをものすごい取り入れて、なんとか自分のやりたいことを描ききろうとともがいてた感じ。表現したいことをどうやったら表現できるのかと悩みつづけた人なのだろうと思った。絵によってコンセプトが大きく変わる。年代順に見ていくと、確かに何かに近づいている感じはする。でも、いくつかの絵には人生への疲労感も良く見える。

・選ぶ手段に本質的な意味は無い。それでも、誰かに何かを伝えるには技術が必要だ。特に、音楽の分野では。ゴッホさんはどう考えていたのだろう。

・色々なことがちゃんとできなかった人なのだろうなぁ、とか思う。お金の管理とか超できなかったとか聞いたことある気がする。不器用ゆえ、辛い場所に追い込まれてしまったのかもなぁとか、勝手な妄想を広げる。その気持ちは良く分かる。皆に迷惑かけたくないのにかけてしまって消えたくなる気持ち。お金がないとそういうものに拍車がかかる。誰かに頼らなければならないから。自分の弱さや愚かさが、余りにも明確なかたちで表に出てしまうから。

・お金の存在って、こういう人間にこそ実は結構大きいんじゃないかと思ったり。お金そのものに余りにも価値を見出すことができなくて、繊細な人間、という意味ね。わたしも、どちらかというとお金というものに対価として得られる物以上の積極的な価値を見出せない人間で、計画性の無い人間だからこそ、必要最低限のお金を持っていないと自分が駄目になる事を知っている。わたしは強くないから。つぶれてしまうから。

・果たして、彼にお金が充分にあったとしたら、あのような絵を残していただろうか?

・妄想してみる。

・今の時代に「世の中を動かしている力」について考えるとき、やはり、お金について考えないわけにはいかないと思う。

・絵を見て思う。対象との関係を描いているというよりは、自分を描いている、という方がより近いと思う。対象との距離が近すぎる、と言っても良いのかもしれない。折りしもそういう時代。貴族時代が終わり皆が自我を獲得しようともがいている時代。19世紀。音楽で言えば、まさにベートーヴェン。

・彼の絵に、概念としての「神」は居ない気がする。そういう意味でベートーヴェンとは違う気もする。あくまで、対象物を描くことで、「自分」を描ききろうとしているような。意識された神の存在は、どの絵にも見られなかったように思う。少なくともわたしには。一枚だけ在った宗教画にさえ。

・ゴッホとベートーヴェンは似ている。ベートーヴェンもオーケストレーション(書いた旋律をどの楽器に割り振るかを決めて、オーケストラ用の楽譜を作ること? とかで良いと思う)は凄く下手だから。「つーかこの旋律はラッパにやれよ! 木管がやっても聞こえねーんだよ!!」とか思いながら吹くベートーヴェン5番。

・ゴッホもそうだけど、やっぱりベートーヴェンは凄い。やりたいことをまっすぐに音楽に落としている。音楽に自我を載せるなんて誰もやってなかったあの時代。交響曲というものそれ自体の価値を大幅に変えた人。凄すぎる。

・つーか、美術における技術のこととか全然知らんくせに技術技術言ってる自分に気づいた。いやん。

・んーでも、ゴッホも、ここまで「表現したいこと」に肉薄できたんだから、天才といっても良いかもって気がしてきた。まあ、要は定義の問題だ。凄いことは凄い。とても。

・やはり、「何か人と違うこと、新しいことをしなければ認めてもらえない」という重圧は、マイナスにしかならないような気がするんだけれど、どうか。いや、もちろん、独自なものを作らなくてはならないのだけれど、果たしてそれが新しい必要があるだろうか。と、化石のような音楽にどっぷり漬かっているわたしとしては思ってしまうわけです。

・やっぱり19世紀的なものって根強い人気がある。

・この辺に20世紀の音楽の苦悩があるわけです。

・蓮見重彦が「20世紀の生み出した価値のあるものはとても少ない。そのうちのひとつは映画だ」と言っている。ふむ。

・って、美術のことなんて全く分からないわたしが何を言っているのか。

・いやまじで、適当に言っているので信じないで下さい。

・箇条書きって、起承転結つけなくて言いからすごい楽であることに今更ながら気づく。
| なつき | 美術 | 23:45 | comments(0) | trackbacks(9) |
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