julyjuly

日記だとか文学音楽に関してだとか創作物の断片だとかです。
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ドトール
でコーヒーを飲むのが好きだ。どれだけ「そんなゴミゴミした場所で、あんなジャンキーな(であってる?)飲み物を!」と言われようと、あのドトールの、なんというか、無記名的で機械的で他人行儀で、でも何となく親しみやすいような、あの妙な雰囲気が好きだ。他のコーヒーショップにはない何かがある気がする。なんとなく。

「私がそのときまでに、どんな風にものごとを眺めるようになっていたか、それであなたにもわかってもらえると思うのよ。子供が生まれてまだ一時間もたってなかったし、トムは例によって行方知れず。私は麻酔から目が覚めて、とことん一人ぼっちな気持ちになっていたんだけど、すぐに看護婦に尋ねたの。生まれたのは男の子か女の子かって。女の子だとわかったとき、私は顔を背けて泣いた。『いいわ』と私は言った。『女の子で嬉しいわ。馬鹿な女の子に育ってくれるといいんだけれど。それが何より。きれいで、頭の弱い娘になることが』」
 彼女は確信に満ちた声で続けた。「だからね、要するに世の中なんてすべて、ひどいことだらけなのよ。みんなそう思ってる。とても進んだ考え方をする人たちだって、そう考えている。でも私の場合は考えるんじゃなく、ただそれがわかるのよ。わたしはあらゆるところにいて、あらゆるものを見て、あらゆることをしてきたんだもの」
         
     スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」(村上春樹訳)より


今日は昨日より随分マシだった。朝起きて、きちんと食事を取り、いつもどおりの所作をひとつひとつ丁寧に確認しながら行う。大丈夫。

夕方、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」を購入し、ドトールで小一時間読書。本当は、あの素晴らしい冒頭だけでも、原書と野崎氏訳との三者を比較してウハウハ楽しみたいところなのだが、今はその根気がない、やる気がない、元気がない、そのうちのどれか、である。別にどれでもいい。

   ***

昨日の文章に付け加えて。

「あるもの」なんてものは所詮まぼろしで、思い込みとすれ違いと浅慮から生まれたもので、もしくは万が一かつて存在したとしても今は既になく、だからこそ、だからこそその「存在感」(「存在」、ではなく)とでもいうもの、が、(「存在」それ自体よりもむしろ強く長く)ひとを苦しめるのかもしれない。そんなただの感覚でしかないものを求めて求めて求めて、そのために自分の首を自分が死ぬまで締めてしまうのだ。
| なつき | 思ったこと | 18:57 | comments(0) | trackbacks(1) |
トリノオリンピック
スピードスケート500Mで4位入賞した岡崎さんの談話をまとめると、「自分としては力を出し切れて満足しているが、皆の声援にこたえられなくて口惜しい。3位と4位では大違いで、応援してくれる皆のためにメダルをとりたかった」となると思う。

で、やっぱり3位と4位はそんなに違うものなのか。どっちも凄いような気がするんだけれど、岡崎さんがこう言うからやっぱり相当違うんだろう。やはり「メダル」をとらなくてはならないのだろうか。

あれだ、何かそんなにメダルメダル言うなら、もうちょっとメダルの種類を増やしちゃえばいいのにと思うんだけれどどうか。そしたらメダル獲得率が格段に増える。勿論素材はランクダウンしていくが我慢して欲しい。20位くらいだとステンレスメダルあたりになる。アルミメダルとなるとだいぶ軽く、肩こり防止に良い。鉄メダルは当然錆びるが磨けば大丈夫。

「山田は35位、見事に紙メダル獲得ですーー!!」
なんか小学生の工作みたいになってきた。やっぱり止めた方がいいかも。
| なつき | 思ったこと | 07:59 | comments(1) | trackbacks(2) |
断片
こちらも、PCの奥から引っ張り出してきた文章です。某お気に入りサイトの文章をぼんやりと見ていて存在をふと思い出し、発掘してみました。
おそらく、初めてラットを解剖したときに殴り書いたものだと思われます。ちょっと手直しして一部を載せます。結論じみたものは何もありません。動物の解剖の描写が少しだけ出てきます。

   ***

 「だってこの世の中に生きていて、そんな静かな小さな死の集積から目をそむけることができると思う? 自分の体調が悪いときには当然のように薬を飲みながら、それらの薬を開発するために生産され殺されつづけるすさまじい数の実験動物たちについて考えないなんて、わたしにはできない。このゆがんだ世界の絶望的な現状を、どこか自分の知らない場所に押し付けて安穏としている、そんな風に生きていたくはないの。この世界が歪んでいるなら、わたしはその歪みを、少しでもわたし自身のところに引き寄せて考えたい。一体どこがどんなふうに歪んでいるのかを、そして、それらが何故歪んでしまったのかを、わたしたちはどうすれば良いのかを、考え続けたいの」
 彼女はいつも、「動物」ではなく「動物たち」と言った。深い意味はなかったのかもしれない。

「わたしは、世の中で起こっていることのどのことについても、ひとごとだとは思いたくない」
 ねずみ(SDラット、という名前なのだそうだ)を手早く解剖しながら彼女は僕に言う。ねずみの目は赤く、毛はとても白い。しっぽは太くしっかりとしていて、ねずみの体長と同じくらいの長さだ。もちろん彼女の視線は常に、僕ではなくねずみの上にある。

 「わたしは、『当事者』になりたいの。どこかで確かに起こっていることなら、そしてわたしがその殺戮を利用せずに生きていられないのならば、わたしはこの手で実際に、そんな殺戮を体験せずにはいられなかった」 
 彼女は静かに話し続ける。一方でその手は止まることなく解剖を続ける。

 初めて動物の解剖というものを見た僕にはとても信じられないことだが、彼女の手は、やわらかく盛り上がるねずみの腹の上や、複雑に絡み合う臓器の上で、まったく迷う事が無い。惚れ惚れする動きだ。次で5匹目。
 麻酔され暖かく脱力しているねずみを手早く台に固定し、腹をアルコール消毒してすぐにはさみを入れる。皮の下にある腹筋を開き、どろりと広がる赤黒い臓器たちを脇に押しやると現れるのが大動脈だ。出血させないよう注意深く血管壁に針を刺し(きっと僕の知らない細かな注意事項がたくさんあるのだろう)、血液を採取する。続いて各臓器が採取されていく。心臓、腎臓、肝臓、脾臓、消化管、エトセトラ、エトセトラ。つるつるとした臓器が、決まった順にシャーレの上に載せられていく。最後に彼女ははさみでねずみの首を一思いに切断し、頭蓋を開いて眼球と脳を摘出する。やわらかい脳を傷つけないよう注意深く薄い骨をはがしていくその作業は、日常生活において僕が行うどんな作業よりも繊細なものに見える。

 そんなふうに一匹のねずみが、あっといういまにいくつかの臓器と血液と肉片となった。シャーレの上に置かれた臓器はどれも小さくつややかに光っている。それらは既に本体から切り離されてただの肉片となっているにも関わらず、生の象徴みたいにも見える。それらはついさっきまで、確かに生きたねずみのなかで、生の大切な役割を担っていたものだ。
 一方で、臓器を失った本体(皮、というのだろうか)は、既に小さく乾いて青白い。毛並みは解剖の間、ほんの数分ほどで、完全にそのつやを失ってしまった。

 生の本質の場所、と僕は思った。ねずみが生きているあいだは、生の本質がどこにあるかなど、考えもしなかった。しかし僕は、確実にそのねずみの「生」を感じることができた。僕はねずみを見る。ねずみはもぞもぞと餌をほおばっている。または、うとうととまどろんでいる(夜行性なのだ)。僕はねずみを抱きあげる。なめらかな手触りと温かみと、手からどこかへ逃げ出そうとする筋肉の動きと、規則正しい鼓動が僕の手に伝わる。そんな小さなことがらの積み重ねで、僕はそのねずみが生きていると判断する。僕の手や、目や、耳が、その生を確認する。

 しかしそのねずみの生はいまや、この世のどこにも存在していない。僕の手が覚えている毛のつやと手触り。あたたかみとやわらかさ。小刻みに動く口元。餌を持つ小さな手。そして今、目の前に整然と並べられた臓器たち。青白いねずみの皮。いくつかのイメージが僕の頭をよぎり、めまいに似た感覚を残していく。そして少しの疲労感。

 そのイメージを振り払おうと頭を軽く振り、意識を別のものにそらすことを考える。ねずみには気の毒だが、僕にとってはまだ世の中はそこまで捨てたものではないのだ。少なくとも、僕はこうして生きているし、彼女も生きている。楽しい時には一緒に笑うことができるし、悲しい時には寄り添って少しでも何かを分かち合うことができるし、夜には服を脱いで抱き合い温かみを感じあうことができる。
 服の下の彼女の身体はとても素敵だ。白静かな解剖室の中で、彼女の身体に手を置いたときの感触、彼女の暖かさ、つるりとした肌を僕は思い浮かべる。そして、その美しい肌の下に含まれるのであろうさまざまなかたちをした臓器についても。
 彼女の肌はなめらかで、少し湿っていて暖かい。僕はその肌に唇をつけることを思う。彼女の肌のにおいを鼻で味わうことを思う。

 僕がそんなことをぼんやりと考えている間も、彼女の手は止まることはない。言いたいことは言い終わってしまったのだろうか、彼女は既に話すのをやめている。採取した臓器を入れたシャーレを置くかたりという音だけがあたりに時折響く。とても静かで清潔な部屋。とても静かで清潔な死。整然と並べられた小さな肉片たち。完全な素人の僕にも分かる。それは確かにプロの仕事だ。

  ***

「僕」が何故解剖を見学することになったのか、という経緯の部分や終わりの部分もあったのですが、あんまり意味が無いのでカットしました。というか全然面白くないし。

以下、「彼女」のせりふへの雑感。
転がり出した歯車を止めるのは難しい。いまや世界はあまりに大きく、あまりに複雑だ。何だか分からないけれど力強く存在する大きな流れ、そんなものの真ん中で身動きが取れずにどこか訳の分からない場所へ流されている、そんな印象を捨てることが出来ない。それはおそらく事実のある側面をあらわしているのだろうと思う。

わたしの手の中でぐったりとし、彼女自身(初めて解剖したのはメスのSDラットだった)とはまったく無関係なもののために、日の光を一度も見ることの無いまま今まさに殺され行こうとしているねずみの赤い目は、そんな訳の分からなさや大きさや複雑さを象徴しているように思えた。わたしの知らないところで、わたしの知らない理由で苦しんでいるひとびとやものたち。わたしはその誰をも何をも理解できないままに死ぬのかもしれない。わたしが今生きている、わたしの知らない世界。想像力が悲鳴を上げる。頼るべき判断基準が不明瞭になる。自分がこれまで何に頼ってきたのかさえ分からなくなる。
他者の「生」を利用することの何が悪いの? だってわたしもあなたも牛や豚を食べる。そうでしょう? そんな風に言い切って、ものごとを単純化したくなる。しかしそこにある違和感がわたしを押し止める。わたしは「理解」したいのだ。
 
では複雑なまま、あるがままに、全体を飲み込むことはできるだろうか? しかしやはり大きすぎる。なにより、わたしには、「わたしにできること」すらまだ把握できてないのだ。

ともあれ、「自分にできないこと」を数えることで疲労してしまってはどうしようもない。常に意識の根底にある「無力感」は、わたしの武器となるはずだ。そう信じるしかない。理論だとかなんだかは知らない。常に自分に課す最低限のものは、「いろいろなものを見て、感じること」。そう信じるしかない。

  ***

理不尽なもの理不尽じゃないもの、意味のあるもの無いもの(その判断基準だっておそらく誰かの個人的な感情以上のなにものでもないのだろう)、数え切れない生と死とよろこびと悲しみを背負って地球は今日もまわっている。いやほんと、大変だと思うよ。できることなら代わってあげたいよ(嘘)。ご苦労様です。
| なつき | 思ったこと | 20:54 | comments(2) | trackbacks(0) |
お伽話
久しぶりに家族の待つ地球に帰還することになった宇宙飛行士の操縦するロケットが、大気圏突入時にエンジントラブルで炎に包まれたそのとき、

砂漠の国に住む少女が夜空に細く流れるひとつの光を見つけ、すぐに、彼女の母親の病気について強く祈った。

   ---

わたしの中では「お伽話」とはこういうものだ。そこには必ず救いがある。ほんの一瞬でも誰かのなぐさめになるのならば。
そういう意味で、お伽話は現実とは少し違う。少しだけ、でも確実に。
| なつき | 思ったこと | 21:54 | comments(5) | trackbacks(0) |
つまるところ
池の中に落としてしまった斧を持った女神に、なんだか長い話の後で『それで、結局あなたが一番やりたいことは一体何なのですか』と問われるならば(正直に答えないと斧は返ってこない)、わたしはただ、「人の心を手で掴んでそこにあるものを引きずり出したり揺さぶったりしたいのです」と答えるのだと思う。

特別なものがそこにあるのならばまっすぐそれに向かいたい。わたしとあなたの周りにある虚勢も言い訳も体面も何もかも剥ぎ取ってしまいたい。あなたやわたしのなかに特別な(もしくは特別でない)何かがあるのならば、そしてあなたがそれに気づいていないのならば、わたしはそれにこの手で触れて、それを揺さぶることで、あなたにその存在を気づかせたい。何とかしてその姿かたちを捉えてみたい。世界の色々なところ、ぱっと見では気づかないような場所に潜む闇があるのなら、わたしはそれをこの手で目の前に引きずり出してみたい。その闇の本質のようなものを、ほんの少しでも捉えてみたい。

わたしが昔から一番恐れているのは、慣れることであり、想像力を殺すことであり、停止することだ。

でも、停止、を受け入れているかに見えるあなたにだって、一枚皮を剥げばそこには、とんでもなく柔らかく暖かいものや、とんでもなく深い闇を持っているのだろうと思う。わたしはそれを見てみたい。そして、あなたにもそれを見て欲しい。だからわたしは、「ただの繰り返し」(のように見えるもの)を壊してしまいたい。

あなたにとっては良い迷惑なのかもしれない。だからわたしはこれまで、色々なものを壊してきたのだろうし、それにはあなたとの関係も含まれる。しかしそんな風に何かを壊すことでしか自分を表現できないのがわたしなのだったら、それを認めてしまわなければ始まらない。
ようやく最近わかってきたのだけれど、わたしはそのようにしか生きられないのだと思う。

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わたしがこういうことをいつも考えている訳でもないのです。
| なつき | 思ったこと | 01:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分のための覚え書き
「ぼくは子どもの頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。家には両親とお姉さんがいたけど、誰のことも好きにはなれなかった。家族の誰とも気持ちが通じあわなかったんだ。だからよく自分のことをもらい子じゃないかって想像したものだった。事情があって、どこか遠くの親戚からもらわれてきたんじゃないかって。
(中略)
いずれにせよ、ぼくは自分がその家族たちと血がつながっているということが、うまくのみこめなかったんだ。それよりはむしろこの人たちはまったくの赤の他人だと思った方が、ぼくにとってはらくだったな。
(中略)
なにか困ったことがあっても、誰かに相談なんかしなかった。一人で考えて、結論を出して、一人で行動した。でもとくにさびしいとも思わなかった。そういうのが当たり前だと思っていたんだ。人間というものは、結局のところ一人で生きていくしかないものなんだって。

 しかし大学生のときに、ぼくはその友だちと出会って、それからは少し違う考え方をするようになった。長いあいだ一人でものを考えていると、結局のところ一人ぶんの考え方しかできなくなるんだということが、ぼくにもわかってきた。ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。
 ひとりぼっちでいるというのは、雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、たくさんの水が海に流れこんでいくのをいつまでも眺めているときのような気持ちだ。雨降りの夕方に、大きな河の河口に立って、水が海に流れ込んでいくのを眺めたことはある?」
 にんじんは答えなかった。
「ぼくはある」とぼくは言った。
 にんじんはきちんと目を開けてぼくの顔を見ていた。
「たくさんの河の水がたくさんの海の水と混じりあっていくのを見ているのが、どうしてそんなにさびしいのか、ぼくにはよくわからない。でも本当にそうなんだ。君も一度見てみるといいよ」

村上春樹「スプートニクの恋人」より


 実家に帰るたびに、この本のこのフレーズが頭に浮かぶ。どうして同じ家族で、こんなにも違うんだろう? 少しの絶望と慣れっこになった諦めを抱えてわたしはいつも、家族の中で一人黙り込んでしまう。好きじゃないわけじゃない。でも、それにしても、同じ家族であるというのに、あまりにもいろいろなものが違いすぎる。

    ***

 ある友人が、以前わたしに、俺は未だに自分の親のことを受け入れることができないんだ、と言った。衣食住以外の何か、自分が自分の中で暖め続けることで、その後の人生を明るく照らす行動指針となるような何か、そんなものを何一つ与えてくれなかった自分の親のことを、どうしても責めずには居られない(もちろん、心の中だけで)とのことだった。
 彼からその話を聞いたときは少し驚いた。彼はとても冷静で合理的で合目的的な考え方をする人間で、そんな彼が、まさかそんな風に解決できない想いを家族に対してずっと抱えていたなんてことを、わたしは思ってもみなかったから。彼の両親のことは彼から時々聞いていたものの、彼は自分と家族とを、完全に切り離した存在として考えているものだとばかり思っていた。

「わたしは、できるだけ受け入れようと努力している。でも、あまりにも違いが大きすぎる。どうしてだろう? 親とは半分は遺伝子を共有しているはずなのに、どうしてこうも違うの?」というわたしの問いに彼がシンプルに答えて曰く、「時代だ」と。

 そのシンプルさに目からウロコが落ちた。そうか時代か。

 わたしはこの27年間、苦労しながらも今のわたしの人格をここまで作り上げてきたのだし、それゆえ、非常に不完全なものではあるものの、わたし自身の人格をそれなりに愛している。だからこそわたしは、自分の意識が続く限り、わたし自身、つまり、独立した自我を持つ独立した存在でありたいと思っている(とても年をとってからはまた話が別なんだけれど、それについてはまたいつか)。

 そう、こういう考え方自体、日本人にとってはとても新しいものなのだ。個人主義が日本に輸入されてから、まだいくらも経っていないんだから。個人が独立した自我を持つべきだ、そんな考え方を耳にしないまま生きてきた(もしくは、その台詞が自分の中にリアリティを持って響いてこないまま生きてきた)のがわたしたちの親の世代だ。戦後の混乱、戦後高度成長期。どちらもわたしはよくしらない。

 これについては、まだまだゆっくり考えてみるべき。
 
    ***

 以下、「子どもの名前」を例に挙げながら「ここ100年ほどの日本における個人と世界の関係の劇的な変遷」について書いた穂村弘のエッセイからの引用。細かい考察は完全に吹っ飛ばしてあるものの、非常に分かり易く面白く書かれていてとても良いと思う。
 彼の言うとおり、余りに短い時間で余りに多くのことが変わりすぎた。そして驚くべき事に、未だにわたしたちはその大きな変遷の真っ只中に居るのだ。


「怜央」「美佑」という名前の子供たち。これはこれで別世界だなあ、と思う。戦後の高度経済成長期に生まれ育った私たちの世代は、この「おきぬさん」「おくらさん」と「怜央」「美佑」の中間のどこかを占めている。私の同級生は、「正夫」くん、「直樹」くん、「幸子」ちゃん、「優子ちゃん」たちだった。
(中略)
「正夫」「幸子」から「怜央」「美佑」へという変化の背後には、戦後という時間の中で日本人の期待値が膨張してきた歴史を読みとることができる。親たちは、幸福で優しい子、というだけでは満足できなくなったのだ。

一方で、私は、子供の頃、友達と一緒に自分たちの祖父や祖母の名前を云い合う遊びをしたことを思い出す。(中略)なかでも飛び抜けて印象的だったのが幸子ちゃんのおばあさんの名前で、「う」というのだった。「うー?」「う?」「う、だけ?」「それでぜんぶ?」。わたしたちは興奮して叫んだ。
 今、改めて考えてみても、「う」という名前にはどのような願いが込められているのかよくわからない。「怜央」「美佑」からは親の願いのインフレ化やそれを支える時代背景を感じ取れたわけだが、私は「う」という名前に対しては得体の知れない怖さを感じる。名前に込められた願いがわからないということは、世界に対する働きかけの感覚が掴めないということであり、つまりはその時代の人間の心がみえないということだ。
 私は「う」という名付けの背後に、デパートもテレビもケーキも街灯もない世界を漠然と感じ取る。そこには私の知っているような次元での個人の願いはなく、ただ大きな闇が広がっているように感じてしまう。それは戦後民主主義的な感覚では測り難いものだと思う。かつての日本人はそうした闇の感覚を自然なものとして生きていたのだろうか。
(中略)
「う」から「幸子」を経て「怜央」という名付けの背後には、近代から戦後そして今という流れにおける世界とそれに対する個人の感覚の変化がある。それ自体の是非や近代や戦後をどう捉えて評価するかという大きな問題をひとまずおくとしても、まずは変化そのものの大きさを痛感せざるを得ない。余りにも短い時間のうちに、余りにも大きな変化が起こったという印象を持つ。

穂村弘 「もうおうちへかえりましょう」より

| なつき | 思ったこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
いまさら
今更ながら、ここに書いてることがあんまり「日記」じゃないことに気づきました。まあ、せっかく気づいたので、これからは、日記っぽいことも書く、かもしれません。

まあ、わたしの台詞はそのほとんどが、予定で未定な訳ですけれど。
| なつき | 思ったこと | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
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